ストーリーと雰囲気 ~「アメリ」

「アメリ」のこと書かなきゃ、とずっと思っている。
タイトルはもちろんずっと知っている。タイトル以上に、あのショートボブの少女がいたずらっぽく上目遣いでこちらを見ている、あのポスターの印象深さはない。
しかし、徹頭徹尾女性向けの映画だと受け止めていたので、観ようという気になれなかった。たとえば、テレビドラマでも「やっぱり猫が好き」とか「すいか」とか、もうその話になると夢中になるほどいい!という女子のセンスがどうにもぴんと来ない。その延長線かなと思っていた。
そして先日、「アメリ」を見た。とてもよかった!まず、その映像が何から何まで美しい。あの「ちいさなちいさな王様」のミヒャエル・ゾーバの絵が使用されているらしいが、全体色彩もアングルもまた小物も建物もそして登場人物のキャラクターも音楽さえも「かわいい」のだ。
ずっとストーリーにばかりこだわっていたが、こういう目に見える事象がかもし出す雰囲気が上質ならそれはそれだけで立派な作品の要素だ。そう思った。ステレオタイプや何事か言っている振りをして実は何も言っていない自己満足の「雰囲気」には辟易しているので、ぐっと明快なストーリーに執着していたがそれだけではないのだ。そう思い直した。
実はもともとストーリーよりも雰囲気で映画を楽しむ方だった。「狂い咲きサンダーロード」「ビリティス」「猪鹿お蝶」「新宿私設警察」「修羅雪姫」「灰とダイヤモンド」10代から20代に魅入られたのはその類だ。むしろ映画ストーリーに出会ったのは30代過ぎてから、黒澤映画がその初めだったと思う。神戸まで通い、黒澤映画特集を連続して観た。そして驚いた。物語の展開に夢中になったのは初めてだったのだ。「隠し砦の三悪人」「七人の侍」「天国と地獄」まさに、ストーリーとの出会いだった。
しかし僕は映画マニアでもなかったしテレビドラマにはまったくと言っていいほど関心がない。多分当時の精神風景のせいもあると思うが、また映画にはまったのは90年代初頭、ネオヌーベルバーグと呼ばれたフランス映画たちだ。「ベティブルー」「髪結いの亭主」「タンデム」「ロザリンとライオン」「ディーバ」「ニキータ」「レオン」「汚れた血」「ポンヌフの恋人」それに同じ頃石井の「水の中の八月」にもひどく惹かれた。今見ると多分退屈でそして幾分気恥ずかしく途中で観るのをやめる気がする。映画が恥ずかしいのではなく、あの甘さにとろけてしまう自分がきっと恥ずかしくなる。めちゃ、雰囲気映画ばかりだ。それも、大概は女子好みではないか。
しかし一方でテレビなら「映像の世紀」がいいし、繰り返しことあるごとに「怒りをうたえ」や「パルチザン前史」を夜中に見ていた。ドキュメンタリーに創作ストーリーはない。伝えるメッセージは言語以前のものであり、それを「雰囲気」と呼べないこともない。
「アメリ」を「大義の春」などと並べると双方から怒りを買いそうだが、いずれも「黒澤」に対置されるのだ。「ノイズミュージック」「能謡」と「西洋五線譜音楽」。
そうなのだ。昨日書いた「語り」や「回想」でなく、「事象」により過去の出来事を示すためには、そこが絡んでいるのかもしれない。勉強のためと、ヒチコックからコロンボまで観まくっていたが、どうも空回りだったかもしれない。