敗北をなぜ描かない

なぜ敗北を描かない。

それがスターウォーズを観てもっとも強く思った感想であり疑問。いや、はっきり言えば抗議だ。
圧倒的な力に対する非力な絶望的殲滅戦。バダバタと倒れ虫けらのようにあっけなく命潰えていく同志。昨日まで一緒に語り歩き走っていたのに、今や累々たる命なき死骸。そして、敵の哄笑。弱さを嘲る、高笑い。
かなわない。決定的に突き付けられ烙印を押され、思い知らされる「無力」。それが、敗北ということ。挫折、折れるということ。存在を否定され、抹殺されるということ。
敗北。
だから、強い方につく。
だから、多数の側につく。
だから、権威の陣営につく。
体制派の本音は実に正直だ。
敗北は絶対に嫌だからだ。
敗北を避けることが正義なのだから。
自由のための蜂起。響きは良い。しかし、89に連鎖した東欧の蜂起、決起は例外に思える。
ワルシャワ蜂起、ハンガリー動乱、プラハ、ラングーン、天安門。
映画で自由レジスタンスは、基地を追われ、輸送船をほとんど失い、残存兵はごくわずかという有様となった。
それでも笑顔で希望を口にする。
なんなんだ、これは。
全力で敗北を検証検討し、総括せねばならない。しかし、その力も無いほど微塵に打ち砕かれてしまった。それでも、なんとかと喘ぎ、やはり沈黙する。
はずなのだ。
つまり、それほどの否定しようのない「敗北」なのである。
なのに、なのになのだ。
根拠のまったくない「希望」を口にして、爽やかな笑みをたたえるとはどういうことか。
絶望のあまり、現実を否認し、妄想に逃げ込んでいるのか。
そうなのだ。
敗北を描かないのだ。
絶望を描かないのだ。
だから大衆娯楽と言えばそうなのだが、言いたいのはそういうことじゃない。
絶望をくぐり抜ける希望ではなく、絶望をただ拒絶して否認して無視することを希望としているのだ。そんなもの希望でもなんでもない。ただの妄想だ。力のない幻想だ。
概してそうだ。
身も凍る孤立や血みどろの決裂などありえないまったくの別次元に暖かく謳歌される「友愛」や「連帯」。そんなもの友愛でも連帯でもない。
要は「一面的」であり「浅薄」「表層」「単純」なのだ。「幼稚」と言ってもいい。
これは思想の立脚点であり、認識の問題であるから、つまり対象年齢が低かろうが高かろうが変わりはない。それは言葉や台詞でくどくど語られるまでもなく、作品から匂い立つ。深い人間洞察や世界観あるいは死生観をベースにしている軽妙な喜劇や子供向けドラマもあれば、陳腐で時に愚劣な思想をベースに感動作を銘打っているものも少なくない。
そして、スターウォーズ。
宇宙の果ての隠れ家的な惑星が、ただの地球にしか見えず、宇宙が舞台でありながら人間以外の生物がほとんどいないなど、見ている者の絶対性をそのままで相対化させてしまう魔法が綺麗さっぱり消えている。
ストーリーの荒さについて書き出せばきりがない。脚本が杜撰。新しい主要キャストがそれぞれ魅力的なだけにとても残念。落胆する。
断言できる。敗北を描き切ることが、観る者に真の勝利を教える。敗北を否認して空疎な希望でごまかす物語は鍛えられた強靭で伸びやかな希望には到底届かない。
そうした巷間あふれる感動だの希望だの前向きだの、ヤク中の妄想のような砂糖菓子にはいい加減辟易する。