Jクルーゾー -「情婦マノン」(1949)

Jクルーゾー「情婦マノン」(1949)
ベネチア映画祭グランプリ作品でそのタイトルはずいぶん目にしていたし、「恐怖の報酬」のクルーゾー監督の作だから期待するなというほうが無理。映画としては「恐怖–」の方がはるかによく物語を作り込まれているように思う。これだけ有名な歴史的文芸作を脚色するというのは大変な力がいる。まして本国の作だ。
原作の「マノンレスコー」を現代に翻案した、いわゆるファムファタールfemme fataleもの。マノンを演じるセシルオーブリーは例えばエバガードナーとかラナターナーとかのようにビジュアルがいかにもそれらしい「男好きのする」女優ではない。それがフランス的であり、またクルーゾーらしさということか。ファムファタールのネオヌーベルバーグ版と言えば「ベティブルー」になるのではないかと思うが、ベティを演じたベアトリスダルもアメリカンセクシャルとはまったく違うエキセントリックなフランス風セックスシンボルだ。ダルは実際数々逮捕歴があり受刑者と結婚するなど文字通り波乱万丈だが、マノンのセシルオーブリーはこのあと脚本家として大成したという。
日本には「魔性の女」という言葉があるが、たとえば「雪女」とか、魅惑的な魔女という(ユングの言う)「原型」が共有されている。集合的無意識に属するイメージになるかな。ファムファタールについて「男を破滅させる女」と説明されるが、マノンなど見ると、ただそれだけではなく、そういう女に「翻弄される男」と対になっている関係性の概念、言わば「対幻想」ではないかと思えてくる。「男を破滅させる女」というのも考えれば一方的な言い方だ。主語が常に男性である日本ということ。ちょっと都合よすぎるし、女側が怒って当然。
だから映画で描かれるのはマノンの「魔性」だけでなく、離れられない男の「愛執」でもある。有名な砂漠のシーン。死んだマノンをさかさに背負い、両足を肩から抱えて歩きゆく。そして砂漠に顔だけ出して埋めて泣く男。これはマゾヒズムどころか、サディズムの心理像そのものではないか。そして終焉はやはり死だ。マノンと同じくベネチア金獅子賞獲ったのがタケシの「HANABI」。こちらは浜辺で男が妻を銃で撃ち、続けて自分の頭を撃ち抜き、死に果てる。ファムファタルとは関係ないが、物語を死で終える同じ破滅の虚無が漂っており、これを美しいと感じる虚無的心性は解明すべきもの含んでいる。
男は愛する女の死を願っているという詩があった。

男について       滝口 雅子

男は知っている
しゃっきりのびた女の
二本の脚の間で
一つの花が
はる
なつ
あき
ふゆ
それぞれの咲きようをするのを
男は透視者のように
それをズバリと云う
女の脳天まで赤らむような
つよい声で

男はねがっている
好きな女が早く死んでくれろ と
女が自分のものだと
なっとくしたいために
空の美しい冬の日に
うしろからやってきて
こう云う
早く死ねよ
棺をかついでやるからな

男は急いでいる
青いあんずは赤くしよう
バラの蕾はおしひらこう
自分の手がふれると
女が熟しておちてくる と
神エホバのように信じて
男の掌は
いつも脂でしめっている

情婦マノンを男の物語として観れば、さまざま見えてくるものがある。
そこに潜むには「女にかしづきたい」という男の深層心理である。これはマゾヒズムとは異なる。
この前面白い言葉を見つけた。漫画家東村アキ子のインタビューだ。

「要するに、世の中の男はみんな、お姫様の家来なのよ。
『(風の谷の)ナウシカ』でもクシャナが一番カッコよかったでしょ?
『焼き払え!』って言うあの人が一番カッコいいじゃない。まわりにかしづいてる男の人たちも、なんかうれしそうじゃん。
『もののけ姫』でもエボシ御前が一番かっこいいじゃない。だから女帝でいいのよ。日本には卑弥呼という女が治める時代もあったわけだし。」

漫画家というのは凄いなと思う。
「『焼き払え!』って言うあの人が一番カッコいいじゃない。まわりにかしづいてる男の人たちも、なんかうれしそうじゃん。」
カルメンの周りで男たちが騒ぎたてる狂騒、「雨」で現れた娼婦に水兵たちが囃したて浮かれ騒ぐ狂態。すすんで翻弄される男たちのみっともない忘我の興奮。それら知りつくしたうえで、クシャナやえぽしは冷めきった横顔で男たちを率いている。男たちは浄化され救われている。
男から見えにくいだけで女からは見え見えなのかもしれない。

情婦マノン。この恥ずかしい邦題にも、男のさもしい欲望がにじみ出ているのかもしれない。
また「ベティブルー」も観てみたくなった。


▲ Manon


▲ Betty Blue