メモ ヘイトの温床
反感や嫌悪。あいつは嫌いだ。どうにも虫が好かん。むかつく。最初から気にくわなかった。いらいらする。顔も見たくない。
理由ははっきりしている。あいつは左翼だ。あいつは右翼だ。あいつは役人だ。あいつは商売人だ。あいつは高卒だ。あいつは大卒だ。あいつは頭が悪い。あいつは上から目線。あいつは体育会。あいつはちゃらい。あいつは年寄。あいつはガキ。あいつは男。あいつは女。あいつは都会もん。あいつは田舎もん。あいつは日本人じゃない。あいつはどうせ日本人。あいつは息が臭い。あいつは香水つけてる。だから、嫌いだ。だから、嫌な奴だ。
反感と嫌悪の由来。それを問うことはめったにない。自分にとっては、上に例示したそれらが嫌な奴だという立派な証明であり、自分が反感を抱き相手を嫌悪する正当な理由なのだ。しかし、それは本当は理由になっていない。それは単にその人のひとつのプロフィールに過ぎず、だからそれが「嫌な奴だ」という理由にはならない。だから、自分の根拠を尋ねるよりも、同様にその属性、プロフィールに反発し嫌悪する者同士が集まることになる。
その集団においては、反感嫌悪の理由が共有され、~だからあいつは嫌な奴だという一つの受け止め方のパタンがまるで絶対真理であるかのように強化されてゆく。ますます、その根拠を問うことをしなくなる。当たり前の常識だからだ。それははたから見れば、ひとつの陣営にすぎない。ほかにもたくさんある陣営の一つに過ぎない。しかし、かれらには自分たちの陣営が世界であり、他の価値観を有する者たちは「信じられない馬鹿ども」であり「異常な狂った者たち」であるから、「消えてなくなればいい」と思うのである。不愉快だから、そういう者たちの顔も見たくないし声も聴きたくない。ますます陣営は閉じてゆく。内部は純化され統一され「一つになっている」から、気持ちは幼児のようにのびやかで自由を感じる。閉じた自分たちの世界がすべてであるから、圧倒的多数の絶対真理を保持しているかのような錯覚に陥っているが、実は偏狭な少数者であったりする。外から見れば集団は小さく凝縮し頑なで聞く耳など持たない硬直した言わば狂信的集団と化してしまっていたりする。だから、内部的統一の平穏を破る異者の出現に神経をとがらせる。違う者は敵である。怖ろしい敵である。だから声を大にしてアナウンスする。「考えるな」「これでいいのだ」「我々はひとつだ」内部に異者を包含しない統一体は、やがて自壊の道をたどる。
自分の価値観を問うことせず、無批判に価値観の共有で馴れ合い結ばれる、癒着とかばい合いの「一体感」がそもそも幻想にすぎないからだ。薬物に浸るように幻想の一体感にむしばまれるとき、内と外を分断し、味方と敵に引き裂いて、破綻への道に突き進む。
だから、反感と嫌悪の由来を自分自身において一人尋ねてみること。いいか悪いか、ではない。正しいか間違っているかでもない。そこには理由があるのだ。左翼が大嫌いになった理由があり、都会者に不信を抱くようになった理由が、必ずある。その理由は出来事とセットだ。その価値観が刻印付けられ、信念となり、自分にとって当り前の常識になった決定的な個人的出来事が必ず過去にある。そして深く自問し尋ね行けば、実は幼児期にさかのぼる。そこでの父親、母親との関りにおける出来事や言葉。兄弟間の出来事や言葉。
どのようにして自分が出来上がったのか、わかる。
反感や嫌悪の由来。その反感が良いか悪いか。その嫌悪が正しいか間違っているか。そうではない。ただ、その由来を自分において理解すること。自分を対象化し、信念や信条が相対化され、呪縛が解かれる。緩やかに自分を自分で理解し大切にするとき、それは他へのまなざしに広がる。他が私と同じだったことを知り、私も他とおなじだったことを知る。それは、内輪の幼児的な人間的結合ではなく、解放と成長を旨とするコミュニティを形成する協同原理だ。全体主義原理を超える連帯の思想だ。