残酷な「私たちはひとつ」
「一億一心が、私共がいるばっかりに、一億二心となる不始末。まったくどなた様にも申訳ない次第」
金子光晴が戦時中に発表のあてもなく、ひそかに書き溜めていた詩の一節だ。不貞腐れた拗ね者の風だが、軍に召集を受けた息子を徴集から逃れさせようとする身命賭した心情の迸りでもある。戦後、時勢に流されずひそかに信条を保った詩人がいたと賞賛されたというが、今ならばどうだろう。なんと、無責任。自分のことしか考えないエゴイストと指弾を浴びるのではないか。寒々しく暗澹たる想いに襲われる。
オリンピックが近づくし、万博まで開催が決まってしまった。憂鬱である。あの空気が苦手だ。「一体感」というもの。だから、さかんに思い出す。「私どもがいるばかりに、一億一心が一億二心に」
カロリーメイトの「心の声」というCMが批判されているらしい。それは受験生への応援をテーマとしたものだが、却って受験生にプレッシャーを与え、追い詰めてしまうという批判だ。CMではブルーハーツの「人にやさしく」の歌詞がそのまま、受験生のつぶやきとして描かれている。その作詞者であるヒロトにとってはどうなのだろう。何しろ「人にやさしく」が発表当時多くの人に衝撃を与えたのは、その歌の出だしの第一声が「気が狂いそう!」という叫びだったからだ。その部分はCMにはあらわれない。しかし作品は世に出たらもう作者の手を離れる。だからヒロトもきっととぼけた顔でイイネと言うかもしれない。
このCMの最後の方で大勢の声が一つになって響く場面があり、気になる。ポカリスエットのCMが重なる。
僕はもともとポカリスエットのこの類いのCMが好きではない。何か大人数の若者が同じ振り付けのダンスを思い切り踊るというシーンがやたらと出てくる。今の若い人たちはこんなものを気持ちいいと思うのか。とても違和感を感じる。これは僕が年老いたから抱く感情ではない。僕の中の十代の自分が激しく拒否するからだ。
なんだろう、この違和感は。一糸乱れぬとまではいかないが、何か嬉々として皆で一つになり同じになって演じ切る。息苦しくて到底耐えられない。そして、これが今の若い人の基調ならば、昔の僕のような十代にとってはまさに地獄だろうと思う。きっといるのではないか。一緒に踊れない少年。や少女。皆が一つになって盛り上がり弾けているのに、可哀想、白ける、ムカつく、無視しよう、いや声かけて仲間に入れてあげよう。想像するだけで地獄だ。そら、学校に行きたくなくなるだろう。
「私たちはひとつ」その言葉は残酷だ。ひとつにならない「違う」人を、いないものとして存在を否定している。そして、その人たちを「私たち」から排除している。
先日、ラトビアの特集番組を見た。バルト三国のラトビアだ。その悲劇の歴史はソ連からの独立運動当時、情報として映像でもさかんに放映されていたから知っていたが、音楽と踊りの民族だとはまったく知らなかった。番組でははるか帝政ロシア支配下から続く民族を挙げての歌と踊りの祭典が映し出された。なんという美しい歌声とダンス。まさに「一つになって」国と民族の誇りを確かめ合うようにして、集った万人が歌い踊る。不思議だった。違和感を感じない。僕もそこに行って音痴でも歌いたくなる。下手でも一緒にダンスしたくなる、何がポカリスエットと違うのだろう。
それはきっと、日本で一つになろうとするとき、自ずからのように「異質」に対する警戒と敵意を心に忍び込ませてしまうからではないか。私たちとそれ以外を区分けするための踏み絵として、「私たちは一つ」を掲げる。それは悪意によるのではない。民族のDNAにあらかじめ組み込まれた宿業のようなものだ。
壁を超えてどこまでも繋がろうとするベクトルと、壁の中の私たちが外の人を選別し中に入れてあげようというベクトル。その両者はまったく非なるものだ。言い換えれば、私たちも変わって行こうとするベクトルと相手を変え、時に従えようとするベクトルだ。
はじめから、一億一心なんてない。そこからこぼれ落ち、排除され無視された人々が厳然と存在するからだ。一億一億心。その一億の心をつなぐのは少なくとも国や民族ではないし、既成の思想や信仰でもない。まず、それを認める他への尊重や畏敬だけが、それらを多様な全体としてのハーモニーを奏でられるのだと信じたい。