アントニオーニ「太陽はひとりぼっち(L’eclisse 日食)」1962
ミケランジェロ・アントニオーニ監督の「太陽はひとりぼっち」を観た。まずこの邦題はちょっと悲しい。原題は「日食」である。「情事」「夜」に続くアントニオーニ監督の「愛の不毛三部作」と称される作品なのだから、そのまま「日食」或いは「日蝕」で良かったと思われるが、おそらくアランドロンファンの動員を狙って「太陽がいっぱい」に引っ掛けて無理筋でつけた邦題だろう。勝手にずっと「日食」と呼びたいほどだ。
1962年作、モノクロ映画である。画面がとても美しい。くっきりとしたコントラストでカメラが切り取りなぞる映像はそのまますべてのカットがスチールのように決まっている。たとえば冒頭のヴィットリアと婚約者の別れのシーン。これは二人が延々と一つの部屋で禅問答よろしく切れ切れの言葉を掛け合うだけのシーンだ。ストーリーがわかりやすく動き出すわけでもなく、またキャストや場面の説明はほとんどない。何が起こるかと見ていても特に何も起こらない。こんな場面、普通退屈すぎて観るのが嫌になってしまう。ところが狭い部屋で二人は次々に位置を移動する。動き続けるのではない。移動してはその場にとどまり、顔を首を手を動かしてはじっと動かずそして言葉をポツリと漏らし、静止してから、また部屋の別の隅に移動する。二人向かい合うこともあれば、男が背を向け女が向かうこともあるし、男に迫られ女が背を向けることもあれば、二人ともが互いに背を向けあったりもしている。二人近づき触れるかと思うと、一方が遠ざかり、或いは二人ともが互いに離れて行きもする。二人がただ静止していることもあれば、激しく力を込める場面もある。舞台上で静止と動作を交互に重ねる能の舞のような二人を、さらにカメラはさまざまな角度に切り替え、寄っては離れ、女の背中から、男の背後からくっきり二人を映し出す。しょっぱなから曖昧で不確定なシーンに乗せられ、いつのまにか幻惑され、つい目が離せなくなる。そしてこれは全編を通じてのことなのだが、目を離せなくなる理由は明らかだ。ヴィットリアに知らず魅入られているのだ。突然挿入される遠景のカットがわかりやすい意味合いを切断して物語的な展開を否定しては破壊するのと同じように、ヴィットリア自身が謎めいてよくわからないキャラクターだ。定まらない。踏み出さない。それは長い長い婚約者との不毛な関わりに自らとどめを刺したための、小さなトラウマのせいかもしれないが、それはただの背景にすぎない。ただ彼女の存在の危うさやつかみどころの無いその魅力が作品全体の言わば非物語性をそのまま象徴している。そしてヴィットリアを演じるモニカ・ヴィッティの美貌は埃っぽい夏のローマで氷のように衝撃的だ。その肢体や動作のひとつひとつがとても魅惑的だ。無駄な飾りのないシンプルなシルエットを描き出す薄い生地をまとって、この上なく美しい。そしてなによりも、その表情である。くるくると予想外の顔を次々に見せては彼女の内心がいっときも定まらずつかみきれない、その不思議な深みに魅せられる。あのアラン・ドロンがストーリーだけでなく、その存在感からして彼女のただの引き立て役に成り下がっている。そう見せる彼の技量でもあるのだが。
とても良かった。「愛の不毛」というよりも「不毛」そのものを描いている。だから「日食」なのだ。深い余韻が長く残る。
アントニオーニ監督については名前を知っていてもこれまできちんと観たことはなかった。実はもう40年以上前にひとつだけその作品を観ている。高校時代に学校さぼって二番館で観た「砂丘」だ。目当てはただピンクフロイドの音楽だった。サントラ版アルバムでは「ナイルの歌」以外はつまらなかった。そして映画自身まったく意味不明で当時はその良さがさっぱりわからなかった。主人公のヒッピーがバナナでトリップする場面がありそれだけが印象に残った。早速友人とバナナを買って皮の裏の繊維を集めて干し、辞書を破って煙草にして一緒に吸ってみたが、もちろん激しくむせるだけだった。馬鹿な高校生だ。これならオプタリドンの方がずっといいと錠剤を口に放り込んだのを覚えている。
アントニオーニ監督の作風スタイルの味わい方もわかった。ヴィットリア演じたモニカ・ヴィッティがすべてだということも。三部作の残り二作品「情事」「夜」も、そして「砂丘」ももう一度観てみたい。
追記)あとで気がつきました。高校時代に観たのは「砂丘」ではなくて「モア」ですね。勘違いでした。
https://youtu.be/DSzKlO25PjA