言い訳にはならないぜ
「歳をとることは人生を語らないことの言い訳にはならないぜ」
たしかにさらに若い方と比すればたとえ20代であっても自分は年寄りだと思うのかもしれない。しかし正真正銘の年寄りがこの言葉を前に奇妙な当惑を覚えるのは何故だろう。
人生を語る老人ほど醜悪なものはないとどこかで感じている。それはただ長く生きているというだけの理由で優位に立とうとすることへの耐えがたい羞恥だろう。老いることを受け入れはしていても、やはりどこかで自分の老いを嫌悪しているのかもしれない。
その嫌悪は「わかっている」という感覚に対する苛立ちだ。「知った」者はもはや二度と「知らない」自分に立ち戻ることはできない。知らないが故の鮮烈な恐れや興奮を、もはや知ってからは抱くことができない。だけでなく「問い」すらもその手から失ってしまう。人生を語るとは人生を問うことだ。人生を問うことをなくした者が人生を歩むことのゾッとする虚無。
「歳をとることは人生を語らないことの言い訳にはならないぜ」
これは文学を生きるそのよすがとしている青年の言葉だ。この言葉を目にして私の胸が騒いだのは、みずみずしい問いにどうして自分をひたさないのか、という挑発が心の深みで涙出るほどうれしかったからだ。
人生は生きるものであって語るものでない。しかし感嘆し驚き途方に暮れては歓喜に興奮しては絶望もする。そう生きていると、語ってもいいのだ。
知っているからではない。まだ知らないから語るのである。私はまだ人生のことをなにも知らない。こんなに老いてさえ。なんという救済の宣告。
この歳できっぱりとこう言うことの痛快さにひたる。私は人生を知らない。だから語る。