由(ゆう)

 京阪電車の踏切を越えると、山科駅前に小さなロータリーが広がる。岡崎誠は舗道脇に並ぶ銀行ATMボックスの陰に回り込んだ。まだ日は高い。四月になったばかりだというのに、もう五月下旬並みの陽気だ。作業ジャンパーを素早く脱ぐと、岡崎はしゃがみ込んで乱暴にそれをバッグに押し込み、ズボンのポケットから携帯電話を取り出した。
 鼻筋の通った彫りの深い顔だ。血走った目で画面を操作して、電話を耳に当てた。
「おう。先生に代わってくれ。岡崎や。あ? とっとと代わったらええんや!」
 ドスの効いた怒声があたりに響いた。
 京都地方裁判所の東端を南北に貫く富小路通には弁護士事務所がずらりと並んでいる。大きなビルに挟まれ、見るからに古びた小さな三階建てビルが森直樹法律事務所だ。二階の執務室で背広姿の初老男性が机の電話機に手を伸ばした。
「はい。森です」
 弁護士の森直樹だ。
「どないなってるんや」
 岡崎は電話に向かい乱暴に声を張ったが、選挙カーが近づいてきて、ひどくやかましい。
「どないなってるんや、言うてるんや!」
「岡崎さん、ああ、決定書のこと」
 岡崎は電話を耳に押しつけるが、弁護士の声がよく聞き取れない。選挙カーが名前を連呼しながら、すぐ目の前に停車したからだ。
「柳本正晴、柳本正晴、地元の柳本、実績の柳本」
 スピーカーの大音響で、電話などできない。
「地元の柳本を、皆さんの力で働かせてください。厳しい選挙を戦っております」
 立ち上がると岡崎は思い切り怒鳴った。
「電話できひんやろが! うさらせ!」
 派手な蛍光色のジャンパーを着た助手席の運動員が気づき、岡崎と目が合った。太々しい顔で岡崎を胡散臭げに見ている。
「うっさいんじゃ、ボケ!」
 岡崎の罵声に運動員は面倒くさそうに運転手に耳打ちしている。と、軽ワゴン車を改造したその宣伝カーはゆっくりと動き出した。
「ご声援ありがとうございます。柳本正晴、頑張ってまいります」
 見当違いのアナウンスを流しながら、宣伝カーはその場を離れ立ち去った。
「くそが!」
 言葉を吐き捨てると、岡崎は立ったまま電話を耳に当てた。
「もしもし、どうしました」
 受話器の森の声に怒鳴り返す。
「話違うやろ!」
 森の声は平然として落ち着いている。
「家裁から却下の決定、届きましたか」
「何が届きましたか、や。なめとんか」
「岡崎さん、だから再々楽観はできませんと私言ってたじゃないですか」
「なんやと!」
「家裁の判断基準は子の福祉ですから、これまでの監護実績だけではむずかしいかもしれないと。でも岡崎さん聞く耳なかったでしょう。私が説明しようとしても、いらんって」
「アホさらせ!」
「岡崎さん、あなたももう少し常識的な態度ができないと、そんなんじゃもう法テラス使えなくなりますよ」
「なんやと、うら! くっそガキが!」
 抑えようもない怒りに呑まれ、岡崎はもう到底自分を調御できなくなっている。
「忠告しておきますけど、あなたのそういうところを見て裁判所は判断したんだと思いますよ。切りますから、もう少し冷静になってからかけ直してください」
 岡崎の威嚇に少しも動じる風もなく、森はさらりと言った。
「くら、くそ弁護士が、誰にもの言うてるんじゃ。もう一度言うてみい、おら!」
 言い終わる前に電話は切れた。
「おい! くそが」
 岡崎は息荒く、ロータリーに立ち尽くすだけだ。
 家庭裁判所に岡崎が申し立てた子の引渡し請求に却下の審判決定が下されたのだ。岡崎には到底受け入れられない。
 なんで子供を捨てて出て行って、何年もほったらかしにしたあげく、子供二人を勝手に拉致して誘拐した女が裁判で勝つんや。ふざけんな。育ててきたのは俺の方や。なんで、あんなくそ女に。
 彼には裁判結果が不当きわまりない理不尽な仕打ちとしか思えない。
 憤然としたまま歩き出すと、危うく自転車とぶつかりそうになった。
「何しよるんじゃ! ぼけ!」
 岡崎は自転車を蹴りつけた。車体は大きく傾いたが、学生風の若い男は驚いた顔で足を踏ん張り、倒れず持ちこたえた。ふと、岡崎は周囲の視線を感じた。改札口から出てきた者や駅に向かっている者たち。人の群れから注目の気配を感じる。なんや、こいつら。彼がにらみ返すと、視線を外し歩き出したりする。かなり離れたところから、しかめるようにして岡崎に顔を向けている者もある。そして彼の方には目もくれず、いかにも愉快そうに笑い声を上げる学生たちや、幼児の手を引き駅へ急ぐ女性の姿も目に入った。
 面白くない。とことん面白くない。彼は苦い汁を飲み込んだように渋面だ。不快なのだ。すべてが癇に障る。苦々しくたまらない、嫌悪と苛立ちに岡崎は呑まれている。
 左手にコンビニが見えた。酒だ。酒を飲もう。彼はその入り口に向かった。
 山科は滋賀県に隣接する京都市東部の古い町である。地上を走るJRと京阪電車が交わるだけでなく、京都中心部につながる地下鉄東西線も交叉する。そのためJR駅前はいつも乗換客の足早な往来に溢れている。気だるい春の日差しの下、追い立てられてきた人々の疲れた息が混ざり合い、この場に生臭く淀んでいるようであった。
 コンビニから出てくると、岡崎は立ったままカップの蓋を開け、グイと一口あおった。馴染んだ刺激が喉から流れ込む。一息つくと、ロータリーのかたわらに大樹が目に入る。ぐるりその幹を木製のベンチが囲んでいた。彼は腰を下ろし、カバンを傍らに置くと、勢い込んで続けざまにあおる。口の端から垂れる酒を拭うと、大きな吐息を吐いた。一気に飲み干したおかげで、少し落ち着いた様子だ。煙草を取り出し、咥えてライターで火をつける。深く吸い込み、鼻から煙を長く吐いた。そしてまた、先ほどの弁護士との電話が岡崎の胸によみがえってくるのだ。他人事やと思いやがってーーー。岡崎はがくりと首を落とした。
 弁護士がなんと言おうと、佑樹、翔太を取り返せると疑いもしなかった。二人は俺が育てた。俺の子だ。くそ。なんでこんなことに。
 彼は三歳と五歳になる小さな息子らを思うと思わずたまらない激情の爆発に大声上げてしまいそうになる。心が引き裂かれ、だらだらと流血するのだ。
 今頃、佑樹、翔太はあの女の家にいる。そして、あのナメクジみたいな男に抱き上げられているかもしれない。ナメクジ男が頬ずりしたり、汚い口を頬につけているかもしれない。そう思うと、いても立ってもおれない。彼は顔をがばと上げる。こうしておれるか。もう実力行使しかないやろ。そう思う。あの女の家を探し出して、乗り込むしかあらへん。岡崎は血走った目で立ち上がった。
 わずかに残った酒が放り込んだ煙草の火をジュッと音を立てて消した。コンビニの入り口脇のゴミ箱にカップ瓶を投げつけた。ガンと音を立ててぶつかると、透明のカップ瓶はコロコロと転がった。
 
 「行ってらっしゃい」
 中本由(なかもとゆう)は立ち上がり、事務所を出てゆく森弁護士の背中に声をかけた。
 由は森直樹法律事務所の事務員だ。彼女は腰を下ろすと手を伸ばし、「司法試験論文過去問講座・商法」と背表紙に書かれた書籍を引き出して開いた。背筋を伸ばし、両の手のひらを机の上に重ねるいつもの姿勢だ。無造作にくくられた黒髪がつややかにきらと輝いている。
 すでに彼女はいち早く大学三年生時に予備試験に合格していている。だから、きっと在学中に司法試験に合格するにちがいないと周囲は思っていたし、期待されていた。しかし、彼女は依然合格を果たしていない。卒業後三年も失敗が続くと、彼女よりずっと成績の劣っていた学友たちすら彼女を追い抜き合格してゆく。特別に優秀と評判だった彼女も、いまや有名国立大卒ではあっても、ただ漫然とバイトに身をやつす並の志願者に成り下がっていた。
 そのように彼女に対する周囲の目は落胆を経て、どこかしら憐憫を含むものに変わったが、彼女自身はと言えば、ほとんど何も変わっていなかった。以前と同様に卑屈で内気な一方、どこか飄々として風変わりであった。
「あれ? ここに入っていたんですけど」
 お気に入りの付箋が見当たらず、彼女は大きな声でそう口にした。はっとして自分の独り言に気づき身体を硬くした。
 そしていつもどおり、古参の男性事務員杉森が声を上げた。
「また独り言、うるさい!」
 辛辣な言い方でなじる。確かに、彼女の場違いな独り言は癇に障るものではあった。
 杉森の一喝にびくりとして背を丸めている由のもとに、もう一人の事務員笠木がマグカップを片手に近づいた。笠木ひとえは森弁護士の親戚にあたる五十前の女性だ。杉森と一緒に由を嫌味な言葉でなぶりいじめるのが日課だが、笠木は自分の方こそ由の被害者だと思っている。
「頭のええ人はええなあ、好き勝手できて。先生からも、えらいえこひいきしてもうて」
 由はただ黙っている。
 笠木は由が机の上に広げている法律書を無造作につかみ上げると、乱暴に頁をめくった。
 事務室の奥から杉森の声。
「ひとえちゃんにはむずかしすぎるわ。そら勉強しか能のない、こずるい女にしか読めへん」
「せやな。あたしら頭の悪いもんが触ったら罰当たるな」
 そう言って笠木は由の前に本を投げた。
「なあ。あんた京大で全部習わはったんちがうの。こんだけ毎日仕事さぼって勉強してるのに、なんで試験受からへんの。なんで?」
 由はただ無表情で固まっている。無抵抗の由に乗じて、さらに二人は責める。
「中本はん、あんたわざと試験落ちてるんちがうか。せやろ。せやないとこんな何回も何回も落ちひんやろ。なあ、杉ちゃん」
 杉森が笑いながら応えた。
「そうやなあ。秀才はんの考えることはようわかれへんからな。一生懸命、合格せんように勉強しよるのかもしれんな。ほたらこいつ、頭おかしいわ」
 二人の嘲笑が響いた。
 そこへ勢いよくドアが開き、男が一人入ってきた。岡崎誠だ。その姿に二人ははっと息を呑み口をつぐむ。そして由は、ぱっとその顔いっぱいに喜びをあらわした。
「先生いてはらへんのか」
 アポも取らず、文字通り乗り込んできた岡崎の威嚇的な佇まいにも拘わらず、由はむしろ顔を上気させ、目をきらきらと輝かせている。そしてカウンターテーブル越しに岡崎と向かい合うと恥じらって、睨みつける岡崎と目を合わせることができない。
「先生、いつ帰ってくるんや」
「今日は午後法廷が二つ入っていて、帰りは夕方くらいになるんやないかと思います」
 両の手をテーブルのペン立て横に着き、身体は相手に向けながらも、視線だけ相手から落としている。
「急いでるんや。待たせてもらうわ」
「今日は帰ってきたら、すぐ仮処分の申し立てに北陸に向かうことになっていて、用件は全部明後日京都に帰ってきてからやるとおっしゃっていました」
 話しながら由はちらと岡崎に視線を上げた。彼女を見ていた岡崎としっかり見つめ合う格好となり、すぐに慌てて目をそらした。
 そうだ。岡崎は思いついた。
「相手方の女の住所知りたいんや。あんた、知らんか」
 奥の事務員たちに聞こえぬよう、声を落として岡崎は由に言った。
「え、あの」
 由は口ごもるようにそう答えると、机に腰を下ろし、「たしか」と小さく口にしながら素早くボールペンを走らせた。そしてメモを小さく折りたたみ、右の拳に隠す。そして立ち上がると、背後の視線を身体で隠しながら、小さくメモを岡崎に広げて見せた。
 住所らしい文字が並んでいる。岡崎は驚いた。駄目でもともとの思いつきに過ぎなかったし、試しに鎌かけてみただけだ。
 由はどうぞというふうにメモをすっと岡崎の前に差し出した。岡崎は紙片を握り、ポケットに突っ込んだ。
「じゃ、先生によろしゅ言うてくれ。また、電話するわ」
 ことさら声を張り上げ、岡崎はそう言うと身を返した。由は硬い表情で、彼に頭を下げる。
 岡崎は後ろ手に事務所のドアを閉めると、紙片を取り出して開いた。
「大阪 谷町7 レジデンス谷町 422」
 筆圧の強い少し子供っぽい角張った字であった。彼は紙片を財布にはさみ込む。
 怪訝な思いになった。あの女なんであっさり教えた。まともな事務員なら教えるわけない。ばれたらただじゃ済まへん。クビや。アホな女や。それにしても、ほんまやろな、この住所。でまかせ掴まされたら話にならん。念押ししといたらよかった。
 由の胸の鼓動は高鳴り、おさまらなかった。開いた専門書の法律用語を目はなぞるが、目に焼きついた岡崎の瞳に、体が熱くなるのだ。
 問われるまま咄嗟に岡崎の先妻橋爪梨香の住所を書いて渡した自分の大胆さに興奮すると同時に、一方で自分のしでかしたことにとんでもない後悔が押し寄せてきた。それは弁護士事務所員として到底許されない違法行為を犯してしまったということではなく、自分のような者が出過ぎたまねをして岡崎から嫌悪されたのではないかという虚妄による悔恨であった。きしょい女だと思われた。軽蔑された。嫌われてしまった。もう駄目。由は泣きたくなった。
 そのとき、電話が鳴った。
「はい、森法律事務所でございます」
 決まった言葉を口にする。
「もしもし」
 岡崎の声。すがりたいような思いが溢れる。
「あんたか」
「はい」
 声を潜めた。哀願するような声。
「書いた住所ほんまか」
 声は怒っていない。うれしい。
「はい。確かです。中央区です」
 声を抑え、勢い込んで話す。
「ほんまやな」
「はい。あの」
 言い淀んだ。
「なんや」
「どうするんですか? 行くんですか」
 岡崎は少し沈黙したが、「知るか」と突き放した。
「すぐ行かないと。もうすぐ東京に引っ越すと言ってました」
「なんやて」
 岡崎の動揺した呼吸がそのまま由の中に流れ込んでくるような気がした。
「わかった。助かったわ」
 そう言って、電話は切れた。
 手を伸ばしゆっくりと、由は受話器を置いた。私にありがとうと言ってくれた。下を向きながら、込み上げる喜びを唇を噛んでこらえた。

 初めての町は戸惑うばかりだ。三十分近く辺りを歩き回り、ようやく岡崎は目当てのマンションにたどり着いた。
 黒っぽい壁面が光を反射し、威圧的にそびえている。玄関ドアの手前に、「Residence谷町」と描かれた黒御影風の台座がある。ここに違いない。メモを取り出す。「422」。四階四二二号室だろうか。道路からはただ一面の美しいスモークガラスが町を映しているだけだ。部屋の区切りすら分からない。このどこかに、佑樹と翔太がいる。佑樹! 翔太! 思わず、大声上げてその名を呼んでみた。
 そのとき、けたたましくクラクションが鳴り響いた。岡崎は飛び上がるほど驚き、脇へ寄った。知らぬまに車道の真ん中まで出てきてしまっていた。
「どアホ!」
 脇を通り抜ける車から、顔を突き出し大声で怒鳴られた。思わず、彼も怒鳴り返す。や、否やその後ろの車からもクラクションを大きく鳴らされる。車道に突っ立っている彼の方こそがとんでもないのだ。
 我に帰ったように、彼は脇の歩道へ退き、そしてまたゆっくりとマンションを見上げた。とり憑かれたように、逸る思いのままやって来たが、着いてからどうするか、彼は何も考えてはいなかった。どうすればいい。彼は自分にとまどっていた。しばらくあたりを見回すと、彼は身を潜めて待ち伏せをすることにした。
 ドアから出てきたときだ。帰ってきたときでもいい。ここで佑樹と翔太を連れ去ろう。
 もう時刻は五時を過ぎていた。一日の仕事を早く終えたサラリーマンたちが、もう足早に駅へと向かう姿も見える。辺りの大小ビルの壁面に西日がまぶしく注いでいる。
 彼は少し離れたところに移動すると、民家玄関先の縁石に腰を下ろした。そしてポケットに手を突っ込み、煙草のつぶれた箱を取り出した。
 一心にマンションの出入りを凝視している。変化のない様子に疲れて、ぼんやり視線を外していると、不意に若い女がドアから出て来た。慌てて腰を浮かせる。違う。知らぬ女だ。また、誰か出てくる。中学生だ。今度は入って行く男だ。子供連れもある。出入りが頻繁となり、その度に腰を上げるが、すべて知らぬ者ばかりであった。
 いつのまにか宵闇が辺りを包み、街灯が灯っている。足元に散らばった煙草の吸い殻を靴で集めると、側溝の穴に落とす。
 彼はひどく疲れていたが、興奮のために身体は熱く、力を感じていた。それでも、空しくただ無為の時間が過ぎるのに、さすがに飽いてきた。そのとき、一人の若い女があたりを見回し、うろうろと不審な様子でいるのを彼は目に留めた。
 女性は岡崎に気がついたらしかった。こちらを見ている。誰だ? 彼が戸惑っているうちに、女性は岡崎のところへ駆け寄ってきた。彼が身構えていると、少し離れて立ち止まった。グレーのセーターに濃紺のスカート。肩から大きめのバッグを提げている。
 由であった。
 岡崎の正面に立ち、まるで岡崎に呼ばれて来たかのように彼の言葉を待っている。岡崎は事態が呑み込めない。
「なんや、お前」
 睨みつける。
 由はハッとして急にもじもじとする。
「なんや!」
 もう一度、今度は威嚇するように彼は怒声を発した。
 由は胸に手を置いて、ひとことずつ自分で確かめるようにして口を開いた。
「なにか、お手伝いを、したいと思って」
 何を言ってるんだ、こいつは。馬鹿か。
 そのとき、マンションの玄関に子供をひとり抱きかかえながら、もう一人の子の手を引いて入って行く女性の姿が目に入った。梨香だ。佑樹! 翔太! 
 ドンと由を突き飛ばし、岡崎は全力でその場に駆けた。親子連れはすぐにマンションの中へ姿を消した。
 もう三人の姿は跡形もなかった。
 エントランス脇のガラスに顔をつけて中の様子を窺うが、何も見えない。
 くそ! 岡崎はあわてて振り返り、何かドアを開ける道具を見回して探すが、そんなものはない。もう一度、力まかせにドアを開こうとするが、開くわけもない。
 見るからに彼は落胆し、なすすべなくただ肩を落としそこに立ち尽くした。
 と、やにわに顔を上げたかと思うと、エントランスから外に飛び出し、由のもとへ駆け寄った。そして飛びかかるようにして、由に大きく拳を振るった。小さく声にならない悲鳴を上げ、背を丸め、我が身を守る彼女の頭、脇、背中を、彼は容赦なく、力込め殴打した。オラァ! 鈍い音がする。彼女がしゃがみ込むと、今度は頭を押さえ、溜めてからガン! と膝を入れた。呻き声を上げ、倒れ込む由。殺される、と彼女は思った。岡崎は最後に、由の腹の辺りに蹴りを入れたが、抱え込んだ腕の隙間に靴先は空を切った。
 地面にくの字で横たわる由を見下ろし、荒い息を吐いている岡崎。鬼の形相だ。こいつのせいだ。こいつさえいなければ、佑樹たちを奪い返せた。くそ! 彼はその場を離れた。誰かに見られているかもしれないと思ったからだ。
 彼の危惧の通り、その一部始終を梨香の夫橋爪貴雄がマンション玄関の物陰からしっかりと目撃していた。
 
 街灯の灯りの下で、一人残された由は身体を起こし、その場に座り込んだ。髪を手で粗く整え、服の砂を払い落とした。立ち上がると膝の横を擦りむき血がにじみ、腕がひどく痛かった。指先が震えている。痛みよりも、驚きが今はまさった。彼女の人生の中で人から暴力を振るわれることなど、見たことも経験したこともなかったからだ。ただ、信じられず、驚き、衝撃であった。そして、無性に切なくなってきた。
 バッグからこぼれた本を拾う。涙が溢れ、頬をつたいぼたぼたとこぼれた。堰切ったように、嗚咽が止まらない。歩きながら、由は泣いた。何の涙なのか分からない。私は何を泣いているのだろう。一方でそう思いながらも、その泣き方はさらに激しくなり、そして号泣していた。あてなく、知らぬ町を歩きながら、おんおんと声を上げて泣いた。
 私は一生分の涙を流している、と彼女は思った。泣くべきときに泣けなかった分、本当は泣きたいのに泣けなかった分、私が溜め込んだ涙のダムが今、壊れたのだと思った。
 泣けなかった二六年分の涙を私は今、全部ぶちまけている。泣け、私。
 わんわんと子供のように泣きながら、由は谷町筋を歩き続けた。ぎょっとして目を見張る周りの人たちのことなど、由には見えない。
 誠さん。泣きじゃくりながら、心は岡崎を恋い求めた。あんな目に遭ったところなのに。誠さん! 泣きながらその名を口にしていた。私には、誠さんしかいない。
 
 梅田駅の酒飲み横丁の暖簾をくぐり、岡崎はうつむいて出てきた。自分への嫌悪に、もう息をするのも嫌だと思っていた。マンションの玄関に入って行く梨香を見た。細身の白いパンツにネイビーブルーのセーター。揺れる髪。逃げるような急ぎ足。何度、あいつに切れてしまっただろう。頭に血がのぼると、自分を抑えられない。何度、泣き喚く梨香を殴り蹴っただろう。今日あの女にしたように。
 内心分かっている。辛抱きかへん俺が悪い。これで人生台無しにしてきたようなもん。俺は正真正銘のクズや。どんな言い訳したかて、辛抱できひん俺がアホや。いつも自分で壊してきた。せっかく大事に積み重ねても、自分でぶち壊してまう。しかし、俺にそうさせる周りの奴らがもっと悪い。俺は運が悪い。内省の一歩手前でどうしても人のせいになる。やり場のない怒りと虚しさが込み上げ、苦々しく胸の奥で交差する。
 地下道を抜けると、駅の反対側に出た。半分以上欠けた明るい月が雲ひとつない夜空に浮かんでいる。美しくデザインされた新築の高層ビルが二棟並び、その間に地下へと続く階段状の斜面を水が流れていた。こんな夜の都会に突然水の音が響く。岡崎は階段の突端に立ち、きらめき流れる水を見つめた。子供のように、流れる水に裸足の足を浸すのを想像した。
 今日はもう帰ろ。今日は散々やった。考えたってしゃあない。忘れよ。明日は大丈夫や。佑樹と翔太連れて、やり直すんや。心でつぶやいていた。
 
 居間では大声上げて子供たちがはしゃいでいる。風呂に入れるため服を脱がそうとするのだが、いつものようにじっとしていない。梨香の腕から逃げた翔太は笑い声上げながら、素裸の佑樹に捕まる。梨香が二人を抱き抱えようとするも、今度は二人歓声上げて手をつなぎ逃げ出す。困りながらも、心の奥から溢れる笑みが梨香の表情ににじみ出ている。欠けたつながりをもうすでに取り戻したように見える。幸せが花咲いたような親子の光景。
 そのとき、隣の書斎で橋爪貴雄は机上の電話をプッシュして、受話器を耳に当てていた。
 はい、こちら中央署です、と、男性の声。最寄りの警察署だ。
 橋爪は抑えた声でまくし立てた。
「前科者が私の家で、家の近くで暴れておったんです。家内と子供を殺そうとしてるヤクザだ。危険だ。すごく危険だ。だから、早く警備に来て私たちをきちんと守ってくれ」
 興奮している。宿直当番か、電話先の警察職員は順序立てて落ち着いて話すよう促した。
「だからとにかく私たちを守れと言ってるんだ。こっちは危ないんだ。ちゃんと聞いてるのか」
「ええ、聞いてます。よくわからないですね。まず、今何が起こってるのか、教えてください」
「今は何も起こっていない。でも夕方、私たちを狙っている頭のおかしいのヤクザが近所で暴れていたんだ」
「今は大丈夫なんですね。夕方危害にあったんですか」
「だから、見たんだ。何回言わすんだ。暴れてたんだ。今も近くにいるに決まってる」」
 あまりに居丈高な橋爪の言い方にそもそも反感を抱いたのか、警察はいかにも気乗りしない口ぶりだ。
「あのね。あなたが危害を加えられたのであれば被害届を警察にね、出したらいいんだけど、ただ見かけただけだっていうんならねえ」
「なんだその言い方。職務怠慢だ。こっちには弁護士の先生もついてるんだ」
「あ、それならまず弁護士先生に相談したらどうですかね。それでどうしてもというなら、弁護士さん一緒に署まで相談に来てもいいですよ。明日の八時半から四時、昼の十二時から一時までは休憩です」
 適当にあしらって面倒な電話を切り上げようとしているのが見え見えだ。経験からこの手の電話の緊迫性は声質で大概は見当がつく。橋爪は、警察のくせに無礼だと思わず鼻息を荒くしたが、確かに弁護士に相談するのが先とも思えた。差し迫って危険ではないと内心わかってはいるが、大げさに訴えて人を振りまわしたくなるのが橋爪の性向だ。
「ね、そうしてみてください。いいですか。はい、失礼しました」
 橋爪を見透かすように、すげなく電話は切られた。
 即座に橋爪はスマホを掴むと、是枝弁護士に電話をかけた。是枝は橋爪の妻梨香の代理人弁護士だ。
「こちらは、是枝法律事務所です。本日の業務は終了いたしました。御用の方は発信音のあとにお名前、ご用件をお話しください」
 もう夜間だ。是枝はもう不在であった。
 橋爪はチェアの分厚い背もたれに身体を預けた。転居まで数日だが、心配だ。クズのくせに岡崎は子供に異常に執着している。家裁の審判で敗けたとなると、何しでかすかわからない。一刻も早く、なんとかして岡崎が警察に捕まるように。それにはどうしたらいいか。橋爪は思い巡らせていた。そしてもう一度、今日目撃した岡崎の暴行現場を思い出そうと試みた。岡崎が暴力を振るっていた相手の女性。どこかで見たことがある。思い出せない。しかし、必ずどこかで会っている。一体誰だ。彼は目をつぶり、その印象的な地味目の雰囲気を一心に思い出そうとしていた。
 
 地下鉄山科椥辻駅の改札を抜けると、岡崎は階段を登った。足取りは重い。怒りが心から退いて行くと、明かりのない荒涼たる孤独がすべてとなる。今日はもう鬱に沈むしかない。佑樹たちを奪い返したところで、どこへ逃げればいいんや。俺には車もない。金もない。俺には何もあらへん。どうすればいいんや。
 地上に出た。もう日付が変わろうとする深夜だ。京都郊外をぐるりと巡る外環状線を走る車も少なくなっている。いつもなら先の赤信号で車列が停止している間に、その隙間を抜けて車道を勝手に横断する。しかし今夜は遠回りして横断歩道を渡る。そして細い路地をふたつ曲がる。この辺り、街灯もなく随分寂しい。人気もなく、ひっそりと静まり返っている。
 道路から、斜めに駐車場を横切って行くその二階建てハイツが彼の住まいだ。玄関ドアの前に立ち、キーケースを探っていると、暗がりから人影がぬっと現れた。女だ。こんな夜中に何してる、と怪訝に思った瞬間、どきりとして驚いた。由であった。
 こいつ、何者や。怒りよりも一瞬怖れを抱いた。
 由は岡崎の前に立ち、彼の目を正面から見たとき、また突然思いが溢れた。
 私にはあなたしかいない。一緒にいたい。あなたを一人にはできない。思うより先に、口を開いていた。
「私を、一緒においてください」
 そしてまた、めそめそと泣き始めた。夜の底で、寂しい魂が生き延びようと泣いている。彼はぞっとした。しかし、意識の深みでほんのわずかな共振が揺れたことに彼は気づいていない。
勘弁してくれ。見なりもひどくダサい。化粧だってその辺の高校生の方がましだ。こいつメンヘラか。こんなむき出しの女、面倒なだけだ。俺はもう疲れてる。
「お前、何もんや」
 呆れうんざりしたように岡崎は尋ねた。
「森法律事務所の、中本由です」
 岡崎は目を見張った。そうだ。確かに事務員の女だ。岡崎はようやく気がついたのだ。
「俺になんの用があるんや」
 由は鼻をすすり、口ごもっている。
「お前、どうしたいんや」
 岡崎は呆れたように尋ねた。疲れのための弱い語調を、由はいたわりのように聞いた。また新たに涙がにじんだ。
「掃除でも、洗濯でもします。そばにおいてください」
 彼はもうどうでもよくなっている。いいかげん早く横になりたかった。由の頑なな気配に根負けしていた。
「じゃ、掃除でもなんでもして帰ってくれ。俺は寝る」
 岡崎はドアを開けた。由は一気に顔が赤く染まり、岡崎の後に続いた。家に上がれば、もう大丈夫だと由は思った。私は帰らない。
 居間に岡崎は腰を下ろした。部屋を見回して、由は戸惑う。掃除しようがない‥‥。由の部屋よりも整頓され、よく片づけられていたからだ。
 それにいい匂いがしている。なんの香り? 由は促されてもいないのに、テーブルをはさみ岡崎の向かいに腰掛けた。ずっと、部屋を見回している。そして隣室に雑誌やビニール袋などが散乱しているのを見つけると、まるでご褒美を見つけたかのように、隣室に勝手に入った。
 まるで子供のような常識ない由の振る舞いに、岡崎は呆気に取られ眺めていた。
 隣室には大きなベッドがあった。彼女は宝物を見つけたように興奮し、身悶えするように上気した。ここでいつも誠さんが寝ている。どんな姿で。ドキドキする。誠さんのベッドの匂いを嗅ぎたい。たまらない。強すぎる酒の香りに酔うように、我を忘れとろけ落ちそうであった。
 シーツに触ってみたい。その布団の中に入ってみたい。ああ、誠さん。誠さんの匂いに顔を埋めたい。抑えがたい欲求に衝き動かされ、彼女はベッドに近寄った。布団と毛布が乱暴にめくれ、シーツとの間に脱ぎすてられたTシャツが見えた。欲しい。鼓動はさらに強くなる。ベッドに手をつき、片手を伸ばした。震える指でそのシャツをつまみ、ゆっくりと引き出した。ひどく小さい。持ち上げると、それは小さな子供用のTシャツだった。
 目を上げると、前の壁に薄緑色の台紙が貼られているのに気づいた。不思議な線描が描かれている。隅にきれいな字で、しょうた、パパ、と書かれていた。その横には、カラーペンで大きく顔が描かれている。ゆがんで傾いだつたない文字で、ゆうき、パパへ、と記されてある。他にも、色紙でデコレーションした誕生日会の写真など、ピンで止められてある。
 由は悲しくてたまらなくなった。そして、やはり岡崎を一人にしてはならないと思うのだ。
 部屋の隅には、大小のおもちゃやぬいぐるみがプラスチックのカゴに入っている。その横には白い半透明の引き出しボックスがあり、中に色とりどりの小さな衣服が丁寧に収納されているのが透けて見えた。取っ手の下には、全体斜めに傾いた、それでも一心に心込めて書かれたと一目でわかる、佑樹、そして、翔太という文字。
 カラーボックスにアルバムがあるのを見つけた。二人の男の子の赤ん坊から幼児への記録。かわいい子供たちと誠さん。由は隣室に岡崎自身がいることも忘れ、夢中になってそのページをめくった。プールの写真。上半身裸の岡崎の写真を見つけ、絶対に持って帰ろうと思う。そして、最後のページに裏返した写真が差し込まれていた。子供たちに手を回す女性の端整な横顔が写っている。ロールした長い髪、鼻筋が通っている。とがった顎。
 ふと物音ひとつしない居間が気になり、戻った。
 岡崎は椅子の背に深くもたれながら、首だけ少し横に傾けうつらうつらとしていた。なんてハンサムなんだろう。由は静かに隣の椅子に腰を下ろし、岡崎の顔をうっとりと見つめた。閉じた目にまつ毛が物思わしげに濃く美しい線をたたえている。ときめく憧れと切ない愛しさがこみ上げる。なんでもしてあげたい。私はできることなんでもあなたにしてあげたい。胸がキリキリと痛んだ。
 キスしてみたい。そう思うと心臓の鼓動が全身まで響いた。腰を上げ、テーブルに手をつき、ふるえなから顔を寄せる。位置がよく分からない。どうしたら唇同士が触れるのだろう。とまどった。そのとき、由の足が椅子をぐいと押し、ガガガという大きな音が静寂を破った。顔を左右に振り、目を開ける岡崎。慌てて椅子に腰を戻す由。
 眉根を寄せて、岡崎は不快そうに目をしばたかせる。身体を前に倒し、両の肘をテーブルにつく。そして大きな息を吐くと隣の由に気づいた。睨むように見つめると、面倒そうに口を開く。
「早く帰れ」
「息子さんたち助けたら、どこに逃げるんですか?」
 ふん、と岡崎は鼻で笑った。どこにも逃げ場所などない。
「そうだな。アメリカでも行くか」
 自嘲的な笑みを浮かべる。もう希望なんかあらへん。どうしょうもあらへん。
 由はバッグを引き寄せると膝の上に置き、開いた口に手を突っ込み、中を探った。
「ここにーーー」
 そう言いながらまだゴソゴソ中を探している。目当てのものがバッグの中に見つからないようだ。それにしても、その探しようは、まさに引っ掻き回すと言う感じだ。中は攪拌される洗濯機のようにごちゃまぜになっているのが分かった。そのまま探しても見つからないと悟ったのか、バッグから分厚い本を次々に出して机の上に置いた。模範六法、民事訴訟法詳解Ⅱ、刑事訴訟法読解ワークブック、司法試験論文対策3。そしてノート三冊を取り出した。
 岡崎は目を丸くして、その分厚い書籍に目を奪われた。
 文字通り、バッグに顔を突っ込むようにして、彼女は緑色の手帳大の冊子をようやく取り出した。そして開いて、彼の前に見せた。
「ここに、二八〇万あります。使ってください」
 それは確かに、二八〇万余の貯金額が印字された、ゆうちょ銀行の預金通帳だった。
 こいつは一体何を言っているのだ。彼はゆっくりとその通帳を手にとったが、言葉が出ない。由に顔を向けた。目が合う。由は照れるように恥じらう。そして誠は納得した。この女はとても頭がいいのだ。頭のいい奴は何を考えているのか分からない。凡人には分からない、違ったことを考える。つまり、馬鹿なのだ。
 すぐに岡崎は計算した。この金、絶対うまいこと巻き上げたる。運が向いて来よった。欝も眠気もすっかり吹き飛んだ。通帳を閉じたり裏返したりして、岡崎は口を開いた。
「あんた、なかもと・・・ゆ? なかもと、ゆって言うのか?」
 由の顔がほころぶ。
「なかもと、ゆうって言います。理由の由です」
「この通帳、あんたのやな」
 念を押した。
 子供のように、由はうなずく。
「なんで俺がお前の金を使わなあかんのや」
 威嚇する風は抑え、ぞんざいな口調で言い放った。
「岡崎さんに義務が発生しない法解釈を必ず調べますから、私のお金を岡崎さんに使って欲しいんです」
「信用できるか。俺を嵌めようとしてへんか」
「そんなことない」
 由はむきになって否定した。
「こんな大金俺にやる筋合いないやろ。あとで取られた言わへんか」
「これが贈与なのか貸借なのか、必ず誠さんが不利にならないように書類を作ります」
 そんなもの残さない方がいいに決まってる。しかし、この女の言ってること、本気か。事務員のくせに法律のことわかるのか。大丈夫かもしれへん。
「なんで俺にそんなことするんや。お前に何の得がある」
「お役に立ちたいんです」
「代わりに、何狙ってるんや」
 由は口を少し開いたまま、押し黙った。図星だったのだ。なんて馬鹿正直な女や。全部顔に書いである。
「なんや。何欲しい。なんか俺にさせようっちゅうんか」
 岡崎は言葉を待った。由は口をつぐみ、うつむいている。いったい何を言い出すのだろう。岡崎はそれを知りたい、と思った。
「私をここに置いてください」
「アホか」岡崎は即座に言った。
「俺がガキ連れて逃げようとしてるの知ってるやろ」
「だから、それ手伝います。それまで、泊めてください」
 やっぱり無理や。この女ちょっと頭おかしい。この金は受け取れへん。でも、金は欲しい。どうしても欲しい。どうする。やっぱり金や。今はとにかく金や。なるようになれ。これだけあれば、車も買えるし、どこへでも行ける。こんな大金手に入るならーーー。俺も運がまわってきた。
 岡崎が返答しようと由を見ると、少し下を向いて目に涙を浮かべ、その姿は今にも自分で命絶ちそうなほど思いつめた暗い絶望の気配だ。
 こいつも、いろいろあるんや。そんで俺なんかにつきまとうんや。
 岡崎は少し、納得した。
「俺の方からも、お前に頼みがあるんや」
 由は顔を上げ、涙をぬぐうとまっすぐに彼の目を見つめた。
「明日、あいつらがいつ引越しするのか調べて欲しいんや」
 なんだ、そんなこと、と言いたげに、由はほっとしたように、胸に手を置き、息を吐いた。仕草は少女そのままだ。そして、救われたようにハキハキと答えた。
「分かりました。では、明日、大阪の引越し屋さん全部に電話します。引っ越しの時間がわからなくなったので確認しました、でいいですか」
 岡崎はうなずいた。
「じゃ、このお金使ってくれますか」
「ああ」岡崎は答えた。
 由は地獄から救済されたように、彼を見つめた。そして、すぐにノートを開いた。
「ここに暗証番号書いておきます」
 ペンケースからボールペンを取り出し、顔を寄せて書く。そして、引き破ると折りたたみ、通帳にはさんだ。髪を耳にかき上げると、彼の眼を見つめ、言った。
「今日、泊まっていいですか」
「家、出てきたんか」
 首を振る。
「一人暮らしです」
「ほな、泊めるだけや」
 そう言うと岡崎は腰を上げると、浴室に入り、カランをひねった。湯が勢いよく、浴槽の底を打つ。
 彼は気がついていた。由はおそらく下着の替えもなければ、化粧道具さえ持っていない。いそいそと彼はどこか彼女が泊まることを喜んでいるような自分を感じた。それは女を泊める欲望とは少し違っていた。子供たちと暮らしていたときの忙しさと重なっていたのだ。
 岡崎が上がったあと、由も入浴した。湯船に浸かり、由は夢の中にいるようと自分で思う。ドキドキと興奮している。生きてる。泣きそうになる。ただ灰色の重い砂のような日々はもう終わる。
 やはり誠さんは私の運命の人だ。信じていた。好きだ。どうしてこんなに好きなんだろう。そして離れられない懐かしさはどうしてだろう。好きです。
 浴槽を出ると、いつくしむように、身体を隅々まで丹念に洗った。愛でるように、身体を磨いた。こんなに自分の身体を愛せたことはなかった。あんなに嫌いだったのに、こんなに自分が愛しい。
 岡崎が出してくれたトランクスとTシャツを身につけ、鏡を見た。自分を抱きしめるように、身体に腕を回した。
 岡崎はうつぶせになって深い寝息を立てていた。ここで寝ろという風に、床に薄い掛け布団が投げ出されていたが、由はそれをつかみあげると、ベッドに上った。岡崎に触れぬよう、それでもいちばん近くでその寝顔を見れるよう、ベッドの端に小さく身体をたたんで横になった。愛しい。私の誠さん。身体の奥がじんじんするように熱い。このまま眠れそうもない。こんなに近くにいて、眠れるはずがない。そう、思いながら、やがて由は深い眠りに落ちていった。
 長かった一日を終え、二人はひとつベッドの上で、語らうように寝息を交わしていた。
 
 電話の着信音が森法律事務所に響いた。
 二人の事務員は互いに牽制し合い、なかなか出ようとしない。いつも電話が鳴ると飛びつくようにして受話器を取る由がまだ出勤していないからだ。呼び出し音がさらに響く。杉森がやっと受話器を取った。
「はい」
「森先生の事務所ですか」
 若い男性の声だ。
「ええ」
 ぞんざいな口ぶり。
「弁護士の是枝です。森先生に代わってもらえますか」
「あ」
 弁護士からの電話と知り、慌てる。
「今日、あの、仮処分の、富山の方に行ってます」
「ああ、そう。先生いないのね。弱ったな。じゃあ、先生の携帯番号教えてくれる?」
「えーと」
 杉森は受話器を押さえ「先生の携帯番号どこ」と尋ねるが、笠木は知らないと首を振る。慌てて、受話器を押さえていた手を離して、机のガラスマットの下に挟んだメモを探す。見つけた。そのとき、笠木が口を挟む。
「先生の携帯、教えたらあかんの違う」
「弁護士の先生なら教えていいんと違うか」
「相手方の弁護士やろ。先生に了解貰ってからの方がいいのと違う」
「そんなことないやろ。中本君いつもどうしてる?」
「知らん」
 会話はすべて電話先の是枝に筒抜けだ。
「ええと、もしもし」
「はい、先生に連絡とって、是枝まで電話いただけるように伝えてもらえますか」
「あ、はい。了解です」
 そして是枝は自身の電話番号を伝え、電話を切った。
 杉森も受話器を置くと、いつものようにすべてを由のせいにした。
「何やってるんや、あいつは。また遅刻か!いつも尻拭いせんならん」
 そうそう、と隣で強く同意している笠木と二人、ひとしきり由の悪口で盛り上がった。
 電話先の是枝は電話を仕舞うと、隣の橋爪に向き直った。そこは中央署の廊下ベンチだ。
「森先生は不在のようです。警察もパトロールを強化すると言っていたので、あとで先生から岡崎に釘を刺してもらいましょう。あとはできるだけ家から出ないことです」
 警察に対する保護の申し入れを終え、署内の廊下ベンチに並んで腰掛けていた。
「パトロールって、ずっと見張ってはくれないんですか」
 橋爪は怒っている。
「パトカーの巡回ルートにあなたのマンションを加えて、ぐるりと回って見てもらえるということです」
「パトカーがいないときにやって来たらどうするんだ」
「いや、普通はここまでやってくれないですよ。家庭内のことには警察も動きにくいですからね」
「犯罪者から市民を守るのが警察の仕事だろう。怠慢じゃないか。これで何かあったら、警察を訴えますよ」
「前科があると言っても、もう六年前に前刑終えてますからね」
 橋爪はもう弁護士も信頼できない、という様子で口をつぐんだ。
「本当にそれが岡崎だったのか。岡崎だとしても、あらわれたのは偶然かもしれない。それに以前奥さんが暴力ふるわれたと言っても夫婦喧嘩じゃないか、それに本人の申告じゃない。いや、警察はそう思うんですよ。犯罪者扱いしたら、相手から警察が訴えられることだってありますからね。あとは細心の注意をこちらがするだけです」
 橋爪は、もう返事すらしない。
「それでもパトロールを強化するってはっきり言ったのはそれなりの気持ちがあるってことです。もし、岡崎を見つけたら理由つけて連行する気かもしれません。それに、ご主人が目撃した暴行事件の被害届がもう出ているかもしれないですよ。被害届出てたら、もう捜査して逮捕です」
 橋爪が口を開いた。
「私どこかであの女、被害者の女性を知っているような気がするんです。被害届出てたらいいんだが」
 なんとかして、逮捕させねばと橋爪は思う。そのとき是枝弁護士の携帯が鳴った。
「はい。是枝です。ああ、森先生」
 森弁護士からの着信だった。
 
 その頃、ぐっすりと深い眠りに落ちていた由は誰かに頭を引き寄せられるのを、夢うつつに感じた。そして、誰かに身体を触られているのを感じ、現実に引き戻された。片手でぐいと抱き寄せられ、もう一方の手がシャツの下の胸をまさぐっている。声を出すのも忘れ、息を呑んだ。岡崎に抱きすくめられ、愛撫されていた。一気に身体が火照り強張った。岡崎の顔を見ると、目を閉じている。起きてはいない。まだ寝惚けているのだ。由は目を閉じ、彼女の方から岡崎に身体を押しつけた。心臓が高鳴る。
 そしてさらに抱きしめられると岡崎の広い手のひらが由の頭を撫でた。由は目を閉じ、もう死んでもいいと愉悦の表情だ。二回、三回、髪を撫でる。起きないで、誠さん。いや、起きて、もっとして欲しい。由は恍惚の夢幻を舞い上がる。
 彼は触れている身体がとても柔らかく、すべらかであることを感じていた。子供たちにするように頭を撫でているとき、それが由であるとようやく気がついた。豊かな女性の感触に、彼はそのまま寝た振りをして由の身体を撫でまわした。そうして、急に手の動きを止めてじっとすると、寝返りするように身体を離した。
 実は岡崎がすでに目を覚ましていたのだと、そのとき由は気づいた。寝惚けていたのではない。上気する自分を感ずる。
 岡崎は身体を起こし、ベッドを降りた。ベッドのスプリングに揺られながら、由は岡崎の後ろ姿を幸せに見つめていた。
「おい、起きろ」
 彼がそう言うと、突然彼の携帯電話が鳴った。
「ああ」
 岡崎はテーブルの携帯電話をつかむ。
「おはよう。森です」
 弁護士の森だ。
「なんすか」
「昨日事務所に来たそうだな」
「おう」
「それから、昨日はどこに行った」
「家に帰って寝てた」
「君を見たっていう人がいるんだ」
「へえ。どこで?」
「相手方の弁護士から今朝電話があった。向こうの家の近くであなたが暴れて、人に暴力振るってたって」
「行ってない。それに、どこに行こうと俺の勝手や。何も悪くないやろ」
「警察が張ってる」
 なんやて。岡崎は口を閉ざした。
「今朝、相手方と弁護士で警察署に依頼したそうだ。警察が近辺を見張ってるそうや」
 しまった・・・。くそ! なんで警察が出てくるんや。押しつぶされそうな思いで、それでも虚勢を張った。
「ご苦労さんなことや」
「どこで住所を知ったか知らないが、行ったら挙げられるから、近寄ったらあかん。それに若い女に暴行したらしいな。その件でも警察動いているらしい」
 なんてことや。次々に周りが閉ざされる。
「そんなこと知らん。俺はやってない」
「これからのことはきちんと打ち合わせよう。抗告するか、それとも面会交流の条件を先方と話し合うか。下手すると、接近禁止が出て面会交流までできなくなるぞ」
 面会交流とは子の監護権を失った親が定期的に子と出会い一緒に時間を過ごす権利のことだ。
「なんで俺がコソコソガキと会わなあかんのじゃ! 親やないか! なんで渡さなあかんのじゃ!」
 頭に血がのぼる。
「ほらまた怒る。岡崎さん、そんなことじゃ、何もかもなくしてしまうだけでしょ。あとできっと後悔する。そうだろ?」
「おう、それでいいやんけ。ガキをなくしてほかに何があるんじゃ。全部なくしてせいせいするわ。あいつらに頭下げるのだけは絶対にせえへんからな」
「それで不利益こうむるのはお子さんたちでしょ。岡崎さん、自分の面子より子供さんたちのこと考えるんが親でしょう」
 言い返そうとするが、頭が混乱して言葉がうまく出ない。
「岡崎さん、現実よく見ないと。短気起こすより、どうすることが子供さんたちにもいいのか、考えてください。辛抱すること」
 彼はもう聞いていなかった。突然電話を切る。椅子に座り、ぐったりとうなだれた。と、バネではじかれたように腕を振りかぶり、思い切り携帯電話を投げつけた。ガン! と食器棚の下に当たり、電話ははじかれて遠く滑り、床でくるくると回った。
 
 岡崎との通話を切ると、森の表情は硬く強張った。胸騒ぎがしたからだ。岡崎に住所を教えたのは、由ではないか。まさか岡崎に由が拉致されたということはないだろうか。
 弁護士は由の携帯に電話をかけるか迷ったが、腕時計に目をやると慌てて用件先へ向かうタクシーを探した。
 
 時計はもう十時前を指している。
 由は、岡崎が森と電話をしている間に、一人居間のドアを開け、玄関口に逃れた。手には携帯電話。胸ふさぐ思いで、森法律事務所に電話をしていた。
「もしもし、中本です」
「あ、中本はん?」
 やはり笠木の声は怒っている。あたりまえだ。
「何時や、思うてんの」
「あの、体調が悪くて、今日休ませていただきたいのですが」
「あんな、ぎょうさん電話かかってきてんねん。今日は先生もいてへんし、どない考えしてはんの」
 坂の上からつぶて投げつけるように、由に怒りの言葉をまくしたてる。この時間までなんら連絡しなかった由の落ち度ではあるが。
「ほんまにあんたの非常識にはうんざりや。非常識なだけやのうて、えげつない神経してるやろ。ほんまにあんた異常やで」
 胸の奥をナイフでえぐられるよう。
「あんたがいると、みんなが迷惑やねん。先生かて、ほんまはあんたにやめてほしいねん。頭いいか知らんけど、うちの事務所にはあんたなんかいらんいうこと何回言ったらわかるんや。信じられへん。もうあんたの顔、見たない。きしょいねん。迷惑や。田舎帰り!」
 叩きつけるように電話は切られた。
 玄関脇のクロゼットの扉が細長い鏡になっている。由はそこに映っている青いシャツを着た自分を見た。岡崎が貸してくれたサッカージャパンの古いシャツ。由は腕で胸を押さえる。
 居間のドアを開けると、岡崎がテーブルに肘をつき、険しい顔でじっとしていた。肌寒い。雨が降っている。晒した素足がひやりとする。テーブルの椅子に手を置き、由はおずおずと口を開いた。
「おはようございます」
 岡崎は顔を上げ、由を見た。すっかり化粧を落とし、素顔であった。見栄えよく眉を整えていたわけでもなし、美しく魅せる化粧も知らない。むしろ素顔の方が肌が輝き愛らしく映った。岡崎は由を見つめ、尋ねた。
「お前、昨日俺のこと警察にちくったか」
 とんでもないと言うように、由は強くかぶりを振った。せやろな。きっと全部見られてたんや。岡崎は椅子から立ち上がった。
「昨日の話、覚えているか」
 岡崎は預かった通帳のことを念押しするつもりで聞いてみた。
「はい。今日は引越し業者に電話かけて、引越しがいつなのか調べます」
「ああ、そうか。せやったな。調べてくれ」
 由はうなずいた。
「そっちやなくて、お前通帳を俺に預けたやろ」
 思わず幸福そうに由は笑みを浮かべた。
「お前言ったこと覚えてるか」
「はい。もう全部誠さんのものです。暗証番号の紙ちゃんとありますか」
 岡崎は無表情のまま、視線をはずして言った。
「帰ってくれ。もう一眠りする」
 そう言うと立ち上がり、由の脇を抜けて岡崎は寝室に向かった。
 由は岡崎を視線で追いながら、慌てて言葉を投げる。
「引っ越しの日がわかったら、戻ってきていいですか」
「電話してくれ」
「番号知りません」
「紙にあんたの番号書いといてくれ、ワン切りする」
「出て行くとき鍵は」
「いらん」
 そう言って寝室のドアを閉めた。一人居間に取り残され、由は少しとまどったが、気持ちを切り替えたように、テキパキと着替え出て行く準備をした。彼女の頭は、引越し業者からその期日を聞き出すことでいっぱいだった。大切な仕事。必ず聞き出して、誠さんを助ける。テーブルに電話番号のメモを置き、用意を済ませた。岡崎から借りたシャツとトランクス。一生の宝物だと由は思う。
「洗濯して、お返しします」
 寝室に声をかけるが返事はない。由は玄関のドアを開けた。雨は小降りだったが、止みそうにない灰色の空だった。
 
 そのとき、はっとして橋爪は思い出した。
「そうだ!」
 思わず声を上げた。あの女は岡崎側の弁護士の事務員だ。そうだ。思い出した。調停の際、家庭裁判所の待合室で一緒だった。そうだ。森弁護士に何か、厚い書類の束を持って来ていた。ということはどういうことなんだ。住所教えたのもあの事務員か。森弁護士は何も知らないのか。これは大問題だ。すぐに連絡しなければ。
 橋爪はがばとソファから立ち上がり、分かった! と言いながら勢い込んで居間を出て行った。翔太を膝に抱き、子供らとテレビをみていた梨香は、不安そうな顔で夫の背中を見つめ、それから何か深く思い定めたような表情をして床に視線を落としていた。
「是枝先生、思い出しましたよ。岡崎に暴行されていた女は森弁護士の事務員です。はい。間違いありません」
 興奮して上ずった声だ。
「その事務員の名前は?」
「知りません」
「名前わからないんじゃ、森先生のところのどの事務員なのかもわからない」
 そんなことどうでもいいとばかりに、まくしたてる。
「これは大変だ。岡崎が事務員を脅してきっとうちの住所を聞き出したんだ。そして連れまわして、暴力振るってた。あれはもう自棄になってるんですよ。人殺しでもなんでもやりかねない。すぐに警察に言って捕まえてもらわないと、何しでかすか分かったもんじゃない」
 吐き捨てるようにあしざまに岡崎をなじる。
「お気持ちわかりますが、今はきちんと事実をしっかりおさえねばなりません」
 是枝は憶測をたしなめた。
「何言ってる。こっちは家族の命がかかってるんだ。もちろん分かってる。先生は梨香の代理人で、私は依頼人じゃない。でも夫婦だから私にも権利がある。あんたには分からないんだ。毎日あの男がやってくるんじゃないかと恐怖して暮らすのがどんなにつらいか。あの男のせいで私ら家族がどんなに苦しんでいるか」
「奥さんはなんとおっしゃってますか」
「何も言ってない。言える訳ないだろ。心配させたくない。私が全部きちんとする」
「一度話し合われてもいいと思いますが」
「もういい。私から警察に話する」
 橋爪は電話を切った。
 是枝は岡崎が申し立てた子の引き渡し事件の相手方である橋爪梨香の法定代理人だ。依頼人は梨香であって、橋爪ではない。是枝は橋爪の陰に隠れ梨香自身の本意がはっきりつかめないことが気になっていた。
 橋爪は続けて警察署に電話をした。
「生活安全課の松田さんをお願いします。谷七の橋爪と言います」
 朝方対応した刑事の名を告げた。
「松田は非番で今日は帰りました。どういうご用件?」
 男性の太い声。
「今朝是枝弁護士と一緒に話聞いていただいたんですが、わかったんです。暴行されていたのは森弁護士の事務員です」
「何が分かったんですか?」
「暴行事件の被害者がわかったんです」
「事件の被害者の身元が分かったということ? それはなんの事件ですか?」
「犯人は分かってるけれど被害者が分からなかったんだ。被害者は森弁護士のところの事務員です」
「よくわからないけど、明日松田に伝えましょう。被害者の名前は?」
「名前はわかりません」
「住所は?」
「わかりません」
 電話先で呆れたような笑い声がもれた。
「名前も住所もわからないんじゃ、分かったとは言わんだろ」
「それ調べるのが警察じゃないのか?」
「電話があったことは明日伝えます。はい。じゃ、切りますよ」
 切られた。相手にされなかった。橋爪の怒りは空転する。まさに、空回りだった。
 そうした橋爪の電話の声は、扉を閉め忘れた書斎から、梨香の耳にすべて聞こえていた。
 
 是枝は森に電話をした。
「ああ、森先生、出張先に何度もすみません」
「是枝先生、ちょうど休んでいたところです」
 老弁護士は昼食がてら地方の依頼人とようやく打ち合わせを済ませたところだった。
「実は、少し面倒な話が入ってきました。朝お話しした森先生の依頼人岡崎が大阪で若い女性に暴行していたという件なんですが、その被害者が先生のところの事務員ではないかと言うんです」
 森は息を呑んだ。
「確証があるわけではありません。目撃したのは私の依頼人の夫なのですが、家裁の調停で何度か会っているので間違いないと言うんです」
「なるほど、そういう話があるんですね」
「警察に話すと言ってましたが、警察がどれだけ動くかは分かりません。先生は何か心当たりありますか?」
「いえ、まず私が事実を確認します。その上で必要なことがあれば対応します」
「ええ。よろしくお願いします」
 森は電話を切ると、不吉な思いに胸がふさいだ。森は由の自宅に電話を入れた。
 
 由のアパートの電話が鳴る。呼び出し音が部屋に響いている。まだ、由は帰っていない。
 その頃、由は帰路ファストフード店に立ち寄り朝食を兼ねたランチをとっていた。このハンバーガー屋は勉強する学生や仕事をするサラリーマンたちの御用達だ。客のほとんどがテーブルに参考書やパソコンを開いている。由も休日や夜間、法律書や問題集など携え、一人ここを訪れることがたびたびあった。
 昨日来、彼女の精神は一種の興奮状態が続いている。しかし本人がそれを自覚するのは困難だ。事態の渦中に呑まれたならば、どうして冷静に自分を知ることができるだろう。まして彼女は自分からその渦中に身を投じ、自ら事態を惹き起こしていたのだ。取り巻く世界や出来事が嵐に荒れる海のようにその様相が激変して行くのと呼応し、その外界を受け止める心の様式も否応なく変容していく。この不連続こそが彼女が岡崎に予感したものだ。まだ彼女のメタモルフォーゼは始まったばかりであった。
 食事を済ませると、由はノートを開き、電話の机上シミュレーションをする。想定される返答を列記しては場合分けして、ほぼ完璧なフローチャートを作り上げた。綿密な条件分岐による緻密なシミュレーションプランである。さらに個別具体的な応答の文言を十分にに検討し、場合に応じ臨機応変に取り出せるよう正確にパターンを暗記した。ひとしきり読み返し、これでいいと小さく呟き、由は果断な意志にとり憑かれた瞳で立ち上がった。
 
 引越し業者は中央区だけで十五社以上ある。
 彼女は手元にシミュレーション記したノートを開き、ペンとマーカー交互に持ち替え、一社ずつ調べて行く。梨香になりすまし、日時の確認をするのだか、そんな引越し運送の依頼は受けていないという返答ばかりであった。
 十一社目の空しい返答を聞いて電話を離したとき、突然呼び出し音が鳴った。岡崎から? 由は急いで耳に当てる。
「はい、中本です」
「あ、森です」
 弁護士からであった。
「やっとつながったよ」
 ホッと安堵する声。
「中本君大丈夫かい? 体調悪いんだって?」
 昨日会っているのに、由は森とずいぶん会っていない気がした。そして胸が痛む。自責の念だ。
「ありがとうございます。大丈夫です。今朝は連絡が遅れてすみませんでした」
「うん。もうずっと話中になっていたからおかしいなと思ってたんだ」
「すみません」
 由は重ねて詫びた。事務所を休んだくらいで森が電話をかけてくることなどない。由は身体を固くして緊張した。
「昨日、岡崎誠が事務所に来て君が応対しただろ? 何言ってた?」
 一瞬びくりとした。
「先生と会いたいとおっしゃっていましたが、先生は法廷に出ておられたので、帰られました」
「君は昨日大阪に行った?」
「行ってないです」
 推測を拒むような強い拒絶の口調に森は驚いた。普段の彼女とは違う。何かあったのだ。真相を詮索するより、言い分を優先することで相手を尊重する。それが弁護士の流儀だが、それ以上に彼女の語調に強い自尊心を感じさせたからだ。
「わかった。明日は出て来れますか」
「はい。すみません」
 由は受話器を置いた。いよいよ、始まったのだ。もう戻ることはできない。由は何度も思い描いてきたイメージを再び噛み締めた。岡崎を守るためなら警察取調べでも抗弁を貫き、たとえ被告席で実刑を宣告されても悔いはないとまで無謀な覚悟をしている。そしてもっとも信頼する恩人の森を決して巻き添えにしないよう、森に対しても虚言に徹する。それが第一歩であったのだ。
 急がねば。由は再び受話器を握り、次の一社の電話番号をコールした。
「丁寧親切スピードのフライ運送大阪中央店でございます」
「そちらに引越しをお願いしている橋爪という者ですが」
「毎度ありがとうございます。それではお名前フルネームとご住所をお願いいたします」
「はい。大阪市中央区谷町七丁目レジデンス谷町四二二号橋爪貴夫です」
「大阪市中央区の橋爪様ですね。しばらくお待ちください」
 親切でフレンドリーな口調だが、次の言葉は恐縮し、あるいは怪訝そうに、そのような予定はないとなるのだ。私はこちらのミスだったと丁寧に謝辞を重ねて切れば良い。まだいくつもの業者が残っている。
「橋爪様。ご利用ありがとうございます。一四日の搬出でございますね。承っております」
 ここだ!
「はい。うっかりして時間を間違ったのではないかと思いまして確認のために電話させていただきました。何時頃トラックは来ていただけますか」
「午前中には完了の予定ですから、そうですね。九時半頃にはうかがわせていただく予定ですが、差し支えございませんか」
 慇懃なほど丁寧な口調。
「それでけっこうです」
 引っ越しは一四日午前中だ。わかった!
「橋爪様」
 電話を切り上げるつもりのところ呼びかけられた。
「はい」
「当日はご主人様が立ち会ってくださるとのことですが、先にご出発される奥様とお子様のお荷物は明後日の午前中に、お二人のご出発に合わせて搬出させていただきますので、よろしくお願いします。当日ご主人にお客様アンケートをお渡しさせていただきますので、恐縮ですが、ぜひ奥様やお子様にもご回答いただければ、現在キャンペーン中ですのでもれなくプレゼントがございますので、よろしくお願いいたします。また当社のウェブサイトからも投稿が可能ですのでご利用ください」
 なんということ。明後日には先に母親と子供たちが発つんだ!
「はい。ありがとうございます」
「オペレータの川本がうけたまわりました。ありがとうございました」
 由は電話を切った。大変だ。すぐに誠さんに伝えなければ。由は着信履歴を開き岡崎のワン切り電話を探す。あった。急いで電話をかけた。
「あさってやと?」
 思わず岡崎は声を上げた。
「ほんまやな。何時や」
 勢い込んで尋ね返す。
「何時かはわかりませんが、引越し屋さんが午前中と言っていました。確かだと思います」
 岡崎は居間のソファで片足を一方のひざに乗せ、携帯を耳に当てている。
「わかった」
「それと、森先生から私に電話ありました」
「なんやて?」
「昨日大阪に行ってないかって聞かれました」
 岡崎はしばらく沈黙した。
「なんと答えた」
「行ってないと答えました」
 また、岡崎は黙った。遠くで雷の音がしている。雨が少し強くなったようだ。
「明後日か・・・。わかった」
「あの、わ」
 由の言葉が聞こえたが、無視して岡崎は電話を切った。また雷の音がする。岡崎は立ち上がると、出かけるため身支度を始めた。
 
 森は金沢駅のホームの端に立っている。由への電話を終えると、改めて事態を整理した。電話の様子から由に何かあったことは間違いない。それはおそらく岡崎が絡んでいる。由が岡崎から暴行を受けた被害者であるなら、それを自分で隠す理由は二つしかない。さらなる被害を怖れているか、あるいは犯人をかばっている、ということだ。由の口調からおびえているとは考えにくい。しかし、彼女が岡崎をかばう理由などどこにもない。どういうことか。無性に胸がざわつく。岡崎の暴走に由が絡んでいるのか。早急に手を打たなければならない。まず警察の動きを止めることだ。そのためには是枝に釘を刺さねば。
「あ、是枝先生。森です。今電話よろしいか」
「森先生、お世話になってます。はい、大丈夫ですよ」
「うちの事務員に確かめたのですが、昨日は定時まで勤務して、それから鞍馬口の自宅に帰っています。大阪には行ってないということです。
 それと岡崎ですが、彼も昨日大阪には行っていないと言っています。そちらの依頼人の近所に現れて女性に暴行を働いたというのはまったく別人だったようですね。事務員はもとより関係がないですから、何か勘違いということでしょう。
 そちらの依頼人が故意に岡崎氏を陥れようとしたのであれば、これは誣告にあたるわけですから、こちらも相応の対応をせねばなりません。虚偽の告発で著しく名誉を損壊された、と捉えざるえません」
 是枝は驚いた。これまでのフランクな態度とは一変し、温厚で知られる森とは思えない挑戦的な圧力のかけ方だった。
「ああ、そうですか。ご確認いただいたんですね。お手数おかけしました」
 是枝は反応を探りながら押し返す。
「もちろんそれが岡崎氏であると断定していたわけではなく、外貌が似ている一人としてたまたま岡崎さんの名前が出たと言った方がよいでしょう」
「それは今初めて先生から聞きましたね」
 少し軽い口調で是枝は話してみた。
「いや、少し戸惑っているんですよ。私は先輩である森先生と代理人同士忌憚ない情報共有で本件事案の全体的な解決を願っただけです。こういった事案はお上の法的裁きだけでは解決できるものではありませんし、当方の依頼人が先生の依頼人に恐怖を抱いているこれまでの経緯があったわけですから」
 森が答える。
「公正な解決を求めているのは私も依頼人も同様です。ですから、架空の犯罪で対立当事者を告発して今後の審理を有利にしようとするなら明白な違法行為でありますし、これに弁護士が主導あるいは加担していたとなると、ことはさらに重大と言わざるえません」
 ゆっくりとした重い語調は森の頑なな意志を感じさせた。口を挟もうとする是枝に言葉をかぶせる。
「是非ですね、もし岡崎氏が犯罪行為に及んでいたと誤解を与えるような申し入れを警察にされていたのであれば、即刻取り下げの手続きをしていただきたい。さらに、なんら本件に関係の無いうちの事務員の名まで出して、無辜の市民を巻き込むようなことは、決してあってはならない。この点、特に申し入れておきます。是枝先生らしからぬ、大いに慎重さを欠いた対応があったのではないか。二度とうちの事務員を紛争に巻き込むようなことはしないでいただきたい。強く申し入れます」
 森が対立関係の構図の中で攻撃的な主張で形勢の逆転を図っているらしいと是枝は理解した。抗告するとは決めたのだなと思った。しかし、それにしても老練な森らしくない稚拙なやり方だ。なぜ、それも突然に?
「助言は大いに参考にさせていただきます。私は、これまで自分の活動は適法かつ依頼人の利益を最大限擁護するものであったと自負しています。暴行、強要あるいは未成年者略取誘拐の企図に対しては断固とした対応をこれからもさせていただきます」
「はい。紛争を拡大させるようなことはくれぐれもしないでいただきたい。賢明な対応を期待しています」
 是枝は電話を置いた。一体どうしたのだろう。少し考えて、はたと思いついた。そうだ、事務員か。森を動揺させているのは事務員なのか。暴行の被害者は事務員だったらしいと伝えたとき、電話先で森が動揺した様子が伺われたのを思い出した。そうか、これは弁護士として練り上げた戦法ではなく、ただ森の弱点に触れるものごとだったのだ。そう思えば、なるほど納得が行く。おそらく、岡崎が谷町に現れたのも、事務員が暴行されたことも事実だと森は感触を得たのだろう。ことは複雑で、予測困難な事態となっていると見ていい。是枝は慎重に守りを固めることとし、橋爪に電話をして軽はずみな挙動を厳に自制するよう申し渡した。
 
 森は次に大阪中央警察暑に架電した。相談内容はもちろん来談の有無も答えることはできないという警察に対して、是枝弁護士の行為は虚偽告発罪の疑いがあること、さらに警察が依頼人岡崎に対して捜査に着手すれば名誉毀損にあたることから、一切捜査をしないよう警告した。しかし警察はそもそも被害届が出されていないのだから、もとより捜査を始めるつもりはなかった。そのまま事案は放置され、やがて忘れられるはずであったのだが、むしろ弁護士がらみの厄介な案件として署員に印象づけられる結果となった。森の勇み足であった。
 続けて森は岡崎にもう一度電話を入れたが、むなしく呼び出しを繰り返すうちに、京都行特急列車がホームに滑り込んできた。
 
 夕暮れ迫り、雨脚はさらに強くなったように見える。窓を見やって、由はたまらなく不安になった。彼女の人生になじんだこの不安と怖れの情動。
 高校に進学し、大学進路を検討する段になり、由は何気なく京都に惹かれた。特段の理由はないまま京都に漠然とした憧れを抱く地方の少女は少なくない。由もその一人に過ぎないと自分で思っていた。
 高三の夏、由は大学のオープンキャンパスを見学するため一人京都を訪れた。初めての京都のはずであった。京都駅の改札を出て、大通りに掲げられた「烏丸通」という道路標識に由は妙な既視感を覚えた。不思議なこともあるもの、とそのときは気にすることもなかった。しかし、それだけではなかった。浅緑の地に濃いビリジアンのラインで塗装された市営バス。木の欄干から見下ろす賀茂川の床。由の心は騒ぎそして叫んでいた。知っている。私は知っている。そして、四条通の人込みから正面に見える赤い八坂神社の鳥居を見たとき、由ははっきりと思い出してしまった。固く閉ざされていた記憶の封印が解かれたのだ。それは二人だけの旅行。最後となった二人の旅行だった。
 まだ小学校二年生。あんなに楽しかった旅行は後にも先にも二度と体験していない。同時にそれは思い出してはならない。禁断の記憶だ。つぶさによみがえる幼時の日々。以来由は消しようもない翳を心に宿した。引き裂かれる絶望。
 窓をしめても響いてくる雨音の中、彼女の不安は岡崎を激しく求めた。居ても立ってもおれない。誠さんと一緒にいたい。彼を一人にしたくない。私が一緒にいる。ずっと一緒にいる。
 込み上げる思いに突き動かされ、由は立ち上がる。トートバッグに下着やパジャマ代わりの薄いスエットやシャツにスカート、パンツを詰め込む。ほかに要るものは。何度も立ち上がりせわしなく動き回り、バッグの隙間にものを押し込む。手を止め、何気なくバッグを覗き込むと、要らないベルトや多すぎるストッキングに、わざとしわくちゃにしようとするかのように無造作に突っ込まれたお気に入りのスカートが見えた。どうしていつも私はこうなのだろう。やることなすことちぐはぐだ。自分が情けなくて、由はじっとその場に座り込んだ。
 そして、何かに気づいたように顔を上げると、彼女はやにわに立ち上がり、バッグをそのまま残し、携帯と財布だけを持って、部屋を出て行った。
 春の雨が夕暮れのアスファルトを叩いている。彼女は水をはねながら、駆けてゆく。透明のビニール傘に手ぶらだ。デニムスカートのポケットがふくらみ、白いパーカーが風にあおられ、雨にぬれている。
 行かなくちゃ。誠さんのところに早く行かなくちゃ。それがいちばん大切なこと。なにより大事なこと。自分のことなんて、どうでもいい。京都地下鉄東西線の階段に、由は消えて行った。
 
 大阪市営地下鉄、谷町七丁目駅の階段に現れたのは岡崎だ。顔は強張り表情がない。町はもう夕闇に沈み、行き交う自動車のライトが水を張った路上に反射している。雨はずいぶん小止みとなっている。
 地上に出ると岡崎はポケットからマスクを取り出し、顔半分を覆い隠した。尻のポケットに突っ込んだ折りたたみ式の傘を取り出しばさと開くと、前かがみになって信号を渡る。顔を傘で隠していた。
 岡崎はずっと煩悶していた。翔太たちを奪い返さんならん。せやけど奪い返すってどうしたらいいんや。二人両手で抱えるなんて逃げられへん。一人しか助けられへんかったらどないしたらええ。自分で不安を打ち消す。臆病風に吹かれてるだけや。なんとかなる。そう自分に言い聞かせても、重い気分は晴れない。うまく行く気が全然せえへん。くそ! 明後日や。明後日になれば、もう二度と佑樹たちと会えへん。想像しただけで、胸が張り裂けそうになる。もうどうなってもええ。なるようになるわ。そうしてここへやってきたのだ。
 弁護士は家の周りを警察が張っていると言っていた。そんなことありか。信じられへん。自分の子供に会いに来て、なんで捕まらなあかんねん。アホ言うな。マスクはただの用心や。脅しに決まってる。警察まで引き込むなんて、アホな。
 岡崎は通行人を装い、佑樹たちのマンションにゆっくりと近づく。立ち止まり、見上げる。やはり四階がどのあたりなのか、わからない。マンションはまるで城塞のように物言わず見下ろしているように感ずる。岡崎は別の角度から眺めようと、そのまま通りを行き過ぎ、ぐるり歩いて回り込んだ。雨のせいで街灯の明かりは滲み、濡れた路上に反射し光度が消失される。マスクをした口元に生温かい息が淀む。少し息苦しい。
 角を曲がる。思いのほか視界を遮る高層建築はなく佑樹たちのマンションが側面を晒していた。すぐ一筋目をさらに左折し裏側に回りこむ。傘を後ろ肩に背負い、見上げた。顔に小雨が降りかかる。まるで内腑を晒すように、建物の裏側がむきだしだ。それぞれのベランダが並び、取り込まれていない洗濯物すら小さく見えている。四階は分かる。しかし、ところどころ壁面が斜めになっており、どこまでが一戸なのかわからない。ずらりとベランダの凹凸が連なる。なんてでかいマンションや。四階らしい階層の列を眺めながら歩く。もしや、梨香が顔を出していないか、佑樹たちの姿が見えないかと。どこや。わからへん。この並びのどっかに佑樹たちおるんや。佑樹、翔太。岡崎の心の呼びかけはもう叫びというより哀願のようだ。ぐるり一周するように、次の角を左折してめぐる。靴に雨が染み込んでいる。疲れた。そうしてレジデンス玄関に面した道に戻った。はっとした。
 正面に赤い点滅灯。パトカーだ。
 離れている。サイレンは鳴らさず、無音だ。動いているのか、停車しているのかもわからない。俺に気づいてるんか。どないしょ。いや、暗がりや、気づかれてへん。自分に言い聞かす。ゆっくりと道の反対側に渡り、そのままパトカーとすれ違おうと思ったのだ。できるだけ自然に、左右を軽く見て少しだけ急ぎ足で車道を横断した。パトカーは停車してはいなかった。ゆっくりと徐行で、こちらに少しずつ滑るようにやって来る。
 弁護士の話は本当だった。俺がやって来るのを張ってたんか。世界中が敵方についているような圧迫感が被害感を駆り立てた。怒りが湧いてくる。そして同時にその怒りを萎えさせる途方も無い虚無感も心に滲んでくる。投げやりで奇妙な自罰的衝動が湧き起こってくる。車道と歩道、徐々に対向して近づく。パトカーは静かに停車した。職質か。どうにでもなれ。知るか。
 そのドアが開き、どうせくそ警官がのっそりと出てくる。そう思っていた。岡崎は歩を進める。まだ降りてこない。
 パトカーを睨みつけると、運転席と助手席の警察官が顔を寄せ、何か計器の下を見ながら話をしている。何しとんにゃ、こら。こっちから行ったろか。お前ら何がしたいんじゃ。俺が岡崎じゃ、なめんな。いっそ自分から大声で怒鳴ってしまいたい。自己破壊的な衝動を抑えることができない。岡崎の足は勝手に車道に入り、パトカーの正面へと向かった。そのとき、パトカーがゆっくりと動き出した。そのまま岡崎を無視するように、ツートンカラーの赤色灯を回転させて、ゆっくりと通り過ぎた。岡崎には一瞥もせず。
 岡崎は歩調をそのままに、車道を斜め横断した。一気に肩すかしの安堵が溢れ、なんとも言えない寂寞とした空虚感に呑まれた。どこへということもなくそのまま傘に隠れ歩いていると、目の前に立つ人に気づかず傘が当たりそうになった。由であった。
 岡崎が家にいないのを知ると躊躇なく、由はここへ向かったのだ。
 由を見て、岡崎は無表情のまま、お前かという顔をした。由は、私ですという顔をして応えた。
 そして、ゆっくりと二人歩き出した。それが当たり前のように、由は岡崎の隣りに傘を並べ歩いた。
 地下鉄のホームでも交わす言葉はなかった。
 それでも二人は地下鉄の車内に並んで座った。不思議なカップルであった。精悍で美男子ではあるが、見るからに猛々しく人生投げ出した気配の輩(やから)然とした三十男と学生風の垢抜けない身なりだが、いかにも自分を持て余し気味の聡明で一途そうな娘。互いに二人ともが不釣り合いであった。
 南森町駅でほろ酔い加減のサラリーマンのグループが乗り込んできた。同じ部課なのか、男性四人に女性が二人。かなりくだけたスーツ姿だ。年代差があるのに親密気で、気心知れない関わりが溢れていた。岡崎とは世界が違う。高校出て以来、汚れない仕事などしたことがない。背広など人生に無縁だ。由の前にグループの若いOLが立っている。かなり酔っている様子で、全身くねらせ声上げて笑う。由と年齢は変わらないように見えるが、その隔たりはとてつもない。
「ラーメンでも食うか」
 岡崎が由に尋ねた。由が岡崎の顔を見る。
「腹減った」
 岡崎がつぶやくように言った。
 口の中でうんと言い、由は頷いた。
 
 森が事務所に帰ってきたのは、もう午後九時をまわっていた。そのまま三階の書庫に向かうと、彼はいちばん奥の書棚から数冊のアルバムを取り出した。そして二階の執務室に入ると応接ソファに腰を下ろし、買ってきた缶ビールを開け、ひと口グイと喉を潤した。長い息を吐くと、手元の古いアルバムを開いた。司法修習生時代の写真だ。京都へ帰る列車の中で、無性に見たくなっていたのだ。
 ページをめくり、そしてじっと一枚の写真に見入った。一泊研修で出かけた日光で撮った写真だ。まだ二十代、もう三十年以上前になる。写っているのは彼と寮で同室だった親友の鬼塚理(おにづかおさむ)。由の父だ。
 笑顔の森は大きな岩に腰をかけ、首にタオルを巻きリラックスしている。隣の鬼塚は片手を腰にまっすぐ立ち視線は若々しく傲慢そうである。森のお気に入りだ。鬼塚を写したものではこの写真がもっとも好きであった。
 天才肌でアグレッシブな鬼塚は個性派の多い同期の中でも際立っていた。講義において、研修所教官だけでなく大学教授や裁判官ら高名な外部講師にも弁舌鮮やかに論戦を挑み、また書けばその起案は抜群であった。有名大学卒業生が多い中で、京都の私学出身である彼は、秀才の凡庸さを笑い嫌悪した。それが彼に周囲から反感を招き寄せることもあった。温厚な森は誰からも親和の感情を寄せられ、鬼塚とは対照的であった。森は鬼塚の才気を愛し、鬼塚は森の人格を尊んだ。
 森はもう一つのアルバムを手に取り、目当ての写真を探した。久しぶりなので、どのアルバムだったか判然としない。次のアルバムの最後にその写真があった。ピンクのリュックを背負った幼い由と手をつなぐ鬼塚の写真だ。
 これは京都だ。カメラを忘れたから持って来て撮ってくれよ。娘と一緒なんだ。彼はそう言って京都駅から電話をかけてきた。
 森は思い出す。
 近くにある彼の出身大学に寄ってから、金閣寺をめぐってきたという二人と落ち合い、あの日賀茂川の床でゆっくりと語らい酒を飲んだ。そのときの写真だ。
 細君と揉めているという噂は耳にしていた。数年ぶりに見た彼は、体調が悪いらしく覇気を感じさせなかった。激務であるから、疲労が常態であるのはこの仕事の通例であるが、司法界の現状を舌鋒鋭く批判する合間に見せる彼の疲弊ぶりは尋常でなく痛々しかった。それでも、彼の娘に対する細やかな愛情と気配りには驚かされた。彼は全存在を娘、由への愛情にかけているのが分かった。娘を愛し慈しむことで、彼は生き延びていたのだ。
 由と会うのはこれが初めてだった。八歳。始終二人は手をつないでいた。それは互いに手を離すまいとする二人の意志が当たり前に通じ合っていたためだ。ほほえましく思えるはずが、その印象はどこか切実さを漂わせていた。由は利発そうなとても表情豊かな少女だった。もう足かけ四年、父娘二人だけで暮らしているのだという。二人は一体であった。弁護士であれば学会や会議にかこつけて家族旅行をセットすることも多いが、鬼塚の京都旅行は純然たる仕事抜きであった。あとになれば、何か予感があったのかと理解できても、その場では気づけるものではない。
 彼の訃報はその三ヶ月後に届いた。死因は心不全となっていたが、自ら命を絶ったらしいと間もなく知った。
 それから十年余を経て、突然由に再会した。大学に出したアルバイト事務員の求人に由が応募してきたのだ。森はその偶然に心底驚いたが、由は森を覚えてはいなかった。森と亡父との友情もまったく知らない。森はその偶然に、見えない鬼塚からの強い思いを感じ受け止めた。そしていつか打ち明ける機会はあるものと、由にそのゆかりを明かすことはしなかった。くるくると表情を変える利発そうな少女は、どこか思い詰めた少しぼんやりとした娘になっていた。彼女の口から鬼塚のことは一度として聞かない。彼女にとって亡父のことは禁忌なのだ。森は察した。
 今、由の身に何が起こっているのか。森は案じた。その一方で、それはいつかは来るとあらかじめ分かっていた事柄のようにも思えた。周りをハラハラさせるのは父譲りだ。森は、もう彼女に鬼塚のことをきちんと話さねばならない、と思いながら、アルバムを閉じた。
 
 岡崎が由を連れて入ったそのラーメン屋は大阪梅田の賑やかな地下のレストラン街にあった。客のほとんどはサラリーマンである。狭い店内に酔漢がひしめき合っている。
 カウンターというにはあまりに狭い壁向きの細テーブルに岡崎と由は並んで腰掛けた。後ろでは先輩らしい男が若手社員に仕事の心得を大声で講釈している。うるさい。岡崎は前に来たことがあったのだが、もちろん由は初めてだ。そもそもこの類の店自体が馴染まない。居心地悪そうであるが、臆してはいない。岡崎は煙草をくわえ、メニューを由に渡すと瓶ビールを頼んだ。由は目移りして選べない。隣から岡崎が、指で写真をトンと叩いた。
「うまい」
 器一面にチャーシューがずらり並び、どっさりネギが盛ってある写真だ。
「じゃ、これお願いします」
 ちょうど、店員が二人の間にビール瓶を置くと、それぞれの前にグラスを二個置いた。
「チャーシュー麺、餃子に鶏唐。一個ずつ」
 注文を繰り返し店員が奥へと戻った。ビールを掴むと、岡崎はまず由のグラスに注いでから、自分のグラスをいっぱいにした。
「ラーメン頼まないんですか」
 尋ねる由に、岡崎は顎で飲めと合図した。由の問いには答えず、岡崎はビールを一気に飲み干す。由もごくごくと喉を鳴らした。いけるクチなのだ。それを見て、岡崎は少し気分が楽になった。半分減った由のコップに注ぎたし、自分にも注いだ。
 何を考えるのも気が重い。荒れた気晴らしをする気にもならず、今はこうしている方が気分が紛れる。岡崎はそう思っていた。
「お前、弁護士にでもなるんか」
 尋ねられ、由は少し息を整えてから答えた。
「はい。そのつもりなんですけど、受かりません」
 少し顔が赤みを差している。
「そんな奴がなんで俺の手助けするんや」
「誠さんに義務が発生しない贈与、分かりました」
 何か思い出したように、由は抑えた声で早口に言った。
「内妻だったらいいんです。情婦だということにしたら、他人じゃないですから、私の通帳自由に使って大丈夫です」
 思わず岡崎は由の顔を見た。こいつはとんでもない馬鹿だ。岡崎は思う。つまり俺と同類や。口で少しだけ岡崎は笑った。よく見りゃ愛嬌のある顔や。見慣れてしもうた。彼はさっきからそう思っていた。
「お前、今夜も俺ん家に泊まるつもりか」
 由はうなずく。
「手ぶらやろ。なんも持ってきてへん」
 由は困って、首を傾げたりしている。
 頼んだ品が運ばれた。空腹だったのだろう。美味しいと言いながら由は勢い込んでチャーシュー麺をすすっている。岡崎は日本酒を頼み、唐揚げをつついた。
「俺は今夜は家には帰らへん」
 由はもう食べ終わるところだ。スープをすすりながら、上目に彼を見た。岡崎はちらと彼女の豊かな胸を見ていた。
「お前、まだ俺のこと助けたろと思ってるんか」
「はい」
「分かっとんか。共犯で捕まるかもしれへん」
「たとえ親権者でも監護者の同意なく子供を連れ去れば、刑法上の未成年者略取誘拐にあたると判例が出ています。警察が動いているなら、必ず捕まって有罪となると思います。そうなれば誠さんは収容歴があるので、重い実刑を受けることは避けられないと思います」
 さらりと語る由に、岡崎は驚きで目を見張った。
「私はそれを分かった上で手伝うのだから、もちろん共犯者です」
「お前、何も分かってへんな」
 思わず岡崎は声を荒げた。
「優先順位の問題です。もっと大事なことがあるので、私は捕まってもそれは付随的な結果にすぎません」
「もっと大事なことって、なんや?! おら、言えや!」
 岡崎は怒鳴った。店内の客の視線が一瞬集まった。
「誠さんと一緒にいることです」
 由は悲しそうな目でようやく答えた。岡崎は力が抜け、言葉が出ない。
「誠さんを一人にしないことです」
 由は言い直した。
 岡崎は混乱した。この女はなんなんだ。そして、彼女に奇妙な欲望を感じている。なんなんだ、この女は。岡崎はもう一度、思った。それは彼にとって体験したことのない新鮮な情動だった。
 由は気持ちがどこかしら昨日までとははっきり違っていることを感じている。それは、今夜雨の中で岡崎と会ったとき、はっきりと知ったからだ。私には誠さんしかいないのと同じように、誠さんには私しかいないのだと。
 一歩ずつ、由が予感していた通りに何かが成就に向かっているのを感じていた。その成就に未来はなくても。それは終わりのための成就であっても。
「今日は帰らないんですか」
 尋ねる由の眸を岡崎は見た。そして岡崎の方が視線を外した。
 机の上の伝票をつかむと岡崎はゆっくり立ち上がった。由も続いて、椅子から降りた。
 岡崎は、もう一言も由に口を開かなくなった。店を出ると、勝手に近くのコンビニに入ってゆく。由が陳列棚の商品を漫然と眺めている間に、彼は素早く次々にカゴに商品を入れて行く。由が気がつくと、すでに大きめのレジ袋いっぱいに商品を買っていた。
 地上の通りに出た。雨はやんでいる。もう終電近くの深夜であるのに、路上は仕事帰りの男女や若者たちでいっぱいだ。由は夜の都会を知らなかった。髪を盛り着飾ったきらびやかな娘らが、下着の見えそうな丈の短いスーツや妖艶な薄地のドレスで男たちを店に引き込もうとしている。そのまわりには金髪に染めた長い髪を顔に垂らした細い腰の男たちが街行く娘たちを取り囲んでいる。夜はまだこれからと言いたげに街中が嬌声を上げ、何もかもを忘れてしまおうというように浮かれ騒いでいる。
 岡崎は信号近くで停車しているタクシーの助手席ガラスをノックした。ウィンドが降りる。
「この近くにラブホあるか?」
 かがみこんで尋ねる岡崎に、運転手は信号の斜め向かいを指差し、あの筋入ったとこにあるけどきっといっぱいでっせ、と答えた。
「じゃ、空いてそうなとこまで乗せてくれるか」
 そういうと、開いたドアに彼は乗り込み、由も続いた。当たり前のように由は彼に従ったが、由はラブホという言葉にピンと来ていなかった。しばらくして、ホテルにしては無駄に華美な建物に停車したとき、それがラブホテルの意味だったとようやく理解した。思わず気持ちが尻込む。誠さんの家がいい。かまわずに岡崎は駐車場側から自動ドアを入る。残されて由は仕方なく中へ入った。
 岡崎は勝手知った様子でパネルの部屋を選ぶとエレベータに乗り込んだ。慌てて、由が追う。由はどきどきしながら、彼に向いて立った。
 表示灯のついているドアを開けて、二人は中に入った。思っていたほど淫靡でもなく清潔な室内に、由は無邪気に安心した。
「すごいですね」
 見回しながら由は思わず一人ごちた。コンビニの袋をガラステーブルにごとりと置くと、岡崎はそのまま浴室に入り扉を閉めた。一人部屋に残された由はソファに腰を下ろす。テーブルのリモコンを手に取り、テレビの電源を入れてみた。目の前に大きなベッドがあった。
 岡崎に続いてシャワーを浴びるとバスタオルを巻いたまま由はベッドに滑り込んだ。ぬれてまう、と岡崎に咎められ、慌てて湿ったバスタオルをほどきベッドから落とす。素裸で感じる布団の心地よい感触に、岡崎の裸身が重くのしかかってきた。暖かい。彼の愛撫にくすぐったく身をまかせるまま、静かに快楽の波に浸されていった。
 彼ははじめ優しく丁寧であったが、やがて荒く雑な扱いをされていると由は感じた。それでもようやく果たされたつながりを、はじめどこか他人事のようにも感じていた。学生時代なりゆきに流されて、また深酔いして強いられた苦く虚しい経験があった。しかし、今彼女はその痛みすら記憶にとどめたい大切なものと自ら耐えていた。岡崎は乱れた。勝手に高揚し、久しぶりの興奮に奮い立っていた。
 静寂。どのくらいたったのか。軽いいびきをかいている岡崎を起こさぬよう、その腕を静かに持ち上げ、由はベッドから逃れた。そして、シャワーを浴び、じんとする軽い疼きを自分で確認するように味わう。渇望したしるしを手に入れた到達感よりも、彼女は人生の負債をくつがえそうとする強い意志を自分自身に感じていた。
 裸身のまま再びベッドに入ると、岡崎の胸に頬をつけて目を閉じた。そして由はその肌に長く唇をあてた。
 
 朝だ。昨日の雨のせいで、からりとさわやかに晴れ上がっている。森は自宅の洗面台の前に立ち、洗った顔をタオルで拭いていた。
 歳をとったな。鏡を見て自分で思う。しかし昨夜たどった過去の記憶のせいで、気分は清新だった。
 電話だ。
「おはようございます。中本です」
 由の声。
「中本君、大丈夫か」
 思わず声がかすれた。
「はい。申し訳ありませんが、しばらく事務所休ませていただきたくて、電話しました」
 由の声が落ち着いているのを森は感じる。
「何か、困ったことになってないか」
 彼女の身を案じている森の愛情がストレートに由に伝わった。
「ご心配かけてすみません。全然、大丈夫です。勝手言ってすみません」
 森は、昨日君のお父さんのこと思い出していたんだ、と言ってやりたいと思ったが、口をつぐんだ。
「うん。来週には出てこれるかい」
 君がお父さんと二人で京都にやってきたときのことを昨日思い出していたんだ。そう言ってやりたいと森は思った。
「はい。ありがとうございます。また連絡します」
「うん。事務所には僕から言っておくよ」
 大学生になった君が僕の前に現れたとき、鬼塚が僕に寄越したんだと思ったよ、と森は言いたかった。
「先生」
 由が言った。
「うん」
「ありがとうございます」
「ありがとう」
 森はもう由に会えないかもしれないとふと思った。電話を切り、森は自分の無力に歯噛みした。何もして上げられなかった。鬼塚、すまない。
 そのとき、再び電話が鳴った。
「おはようございます。朝早くすみません、是枝です」
 森は息を整えた。
「おはようございます。どうされました」
「依頼人と電話を代わりますので、よろしくお願いします」
 はい、という声が聞こえ、マイクの摺れる音がした。
「もしもし、私、橋爪梨香と言います」
 
 たっぷり十時までホテルでまったり過ごし、ようやく由と岡崎は外へ出た。
 人は急ぎ足で行き交い皆追われるように仕事に精出している。夜の顔は跡形もなく、町はビジネス街のような慌ただしさだ。性急な町のリズムから弾かれるように、二人はカフェに逃げ込んだ。
 階上の窓側カウンター席に腰かけると、窓の外が一望できた。
「お前、免許持っとるか」
 今にも具のこぼれ落ちそうなホットドッグ頬張りながら、岡崎が訊いた。由はスプーンを手に、口にグラタンふくませたまま首を振った。
「やっぱりな。俺も警察に免許止められたままやさかい、しゃあないな」
 岡崎はコーヒーを流し込む。
「明日、お前タクシー乗って待っててくれ。何万円かかるか知らんが、かまへん」
 由はいよいよなのだと腹の据わった緊張を感じた。
「午前中とだけしかわからへんやろ。朝、九時ごろから待ち伏せるんや。ガキ出てきたら、二人連れてすぐ新大阪までタクシーで行って、新幹線で九州に行くんや。俺がガキ二人見るさかい手伝うてくれ。お前の金、使うで」
 そう言って、ポテトを口に放り込む。それだけ? あまりにざっくりとした乱暴な計画だと由は思った。
「もうちょっといろんな場合想定して検討しといた方がいいと思います」
 由がそう言うと、岡崎は笑顔になってちらと由を見ると、コーヒーを口にした。岡崎は本当に成功させようとしているのか。あるいははなからあきらめているのだろうか。由は不満に思った。
「金はあるんや。駄目なら、関東でも東京でもガキ追っかければいいんや」
 由は野菜ジュースのストローに口をつけた。
「お前、今日はどうする。明日新大阪でお別れや」
 別れも何も、初めて口を利いたのが一昨日だ。成功すれば、駅であなたとちびっ子たちを私は見送る。由は想う。あなたが一人にならなければそれでいい。なんでだろう。涙が少しにじんでくる。由は顔を窓の外に向け、一口二口頬張り、噛んだ。
「帰るか。俺は明日の用意を」
 遮って、由が言った。
「金閣寺、行きます」
「金閣寺? なんやそれ」
「一緒に」
 由は岡崎の顔を見て静かな笑顔で言った。瞳が潤んできらと輝いていた。
「外人や田舎のガキやあるまいし、金閣寺なんか行けるか」
 語調は言葉ほど拒んではいなかった。
「お願い」
 きれいな顔だと岡崎は思った。
「お天気いいし、京都観光」
 岡崎はふんと鼻を鳴らし少し笑った。
 
 京都に向かう新快速電車には由だけがシートに座った。傍らに岡崎が立ち、座席に背をもたれさせ目を閉じている。由も肘掛に肘をつき、まぶたを結んでいた。
 煙草の匂いのする青い背広。手をつないで、一生懸命走る。由ちゃんごめん寝坊した。一生懸命走る。背広姿の先生に引き渡されると、子供の列に押し込まれた。すぐに入学式が始まった。
 集団登校の集合場所はマンション三階のうちの部屋の真下だ。待っていると、必ずガラリと窓を開け、身を乗り出し手を振ってくれた。
 学童保育から帰ると、私はドアの前で首から下げた鍵袋を引っ張りだす。がちゃんと開けたドアの中は真っ暗だ。電気をつけても、私は一人。お父さんの帰りを待つ。一人ずっと帰りを待つ。寂しくて怖くなったら、腕を噛んだ。両腕ともたくさんの歯型がついたら、髪の毛を時分で抜いた。トン、トン、トン。お父さんの靴音。鍵を開ける音。
 お父さん、お父さん、由のお父さん。
 由、由、お父さんの由。
 抱き上げて、踊ってくれる。
 お父さん、大好き。
 世界一大切な由、お父さんの宝物。
 あぐらかいた膝の上に座る。ほっぺたがちくちくと髭で痛い。
 お父さん、お父さん、待ってる。
 お父さん、私は待っている。
 お父さんが迎えに来てくれるのを、私は待っている。
 必ずお父さんは迎えに来てくれる。
 私は待っている。
 肩をトンと叩かれ、由は目が覚めた。間もなく、京都に到着する。すっかり熟睡してしまっていた。昔の夢を見たせいか、目じりに涙がにじんでいた。
 京都駅の改札を出ると、正面に京都タワーが見える。
 京都観光のバス路線図前に人だかり。皆が一目で旅行と分かる装いをしている。二人はただの普段着で、おまけに手ぶらだ。少しだけ居心地が悪い。ふっと由は思いついた。
「服買おう」
 唐突な由の言葉に、岡崎が顔を向く。
「服買ってください」
 変な奴だと言いたげに岡崎は鼻で少し笑った。
「私、知ってるんです。駅ビルにユニシマのお店があります。ものすごく安いんですよ。すっごく。私に、スカート買ってください」
「俺が持ってるのはお前の金や」
 勝手にしろという態度だが、付き合う気でいる。
 店舗は広々としたフロアに、高くまで色鮮やかな衣服がずらりハンガーに並び、また美しく折り畳まれて重ね上げられている。スタスタと由が歩み行くと、あとから岡崎は男性コーナーでいかにも手持ちぶさたな様子で商品をながめたり、触れてみたりしている。
「選んでください」
 突然由の声がした。岡崎はかたわらに立つ由を振り向いた。
「俺が?」
「はい。私に買ってください」
「アホ言うな。自分で選べ」
「選んでください」
 それが当然のような由の言い方にムッとする。
「アホ抜かせ、なんで俺がお前の服選ばなあかんのんじゃ」
 由は言い直す。
「振りだけでいいですから」
 振りだけ? どういうこと。恋人ごっこか。
「彼氏の振りしろってことか」
 由は少し考えてから、それでもいいです、と言った。
「でも、やっぱり、選んで欲しいです。どんなのでもいいから、私が着る服、あなたに選んで欲しい。一生大事にします」
「お前ストーカーになるなよ」
「私、ただのファザコンです」
「ああ、そうか。お前ファザコンか」
 由は少し笑って、うなずいた。
 そして少し匂いフェチ、と由は心でひそかにひとりごち微笑した。
 由は岡崎の手首を掴むと、両側にワンピースが並ぶハンガーラックの間に彼を引っ張って行く。
「こっちか、こっちで、私に似合うもの、なんでもいいから選んでください」
 春らしいパステルカラーから強くて深い色まで、鮮やかに並んでいる。右がコンビネーションワンピース、左はコットンワンピースと表示してある。
 岡崎はまったく自信がない。どれが似合うかなど分からない。
 ただじっと立つだけの岡崎を見て、由は父を思い出す。楽しかったあの買い物を思い出す。
 スーパーの二階、おもちゃ売り場の横が子供服売り場だ。これがいい? こっちはどう? 由ちゃん、これ可愛いよ。由ちゃん、お姫さまだ。これはダメだ。男みたいだ。由ちゃんは美人だね。本当に美人だね。由ちゃんはスカートが似合うよ。このワンピースにしようね。
「お父さんにスカート買ってもらった思い出があるの」
「ほうなんや。お前好きな色なんや」
「黒」
「黒てお前、魔女やんけ。もう、これにせえ」
 それは、ワイン色の地に細い赤のストライプが走っている、由の年齢にふさわしく少し大人めのデザインだった。
「ありがとう。大事にします」
「着替えへんのか」
 由は答えなかった。
 レジに並んで、岡崎は由に話しかけた。
「ファザコンなら俺よりもっとおっさんがいいの違うか」
 由は首を振った。ふっと思いついた。
「まさか俺はお前のオヤジに似てるのか?」
 首を傾けるようにして下を向き、もう一度首を振って、由は「似てない」と否定した。
 いつもと変わらない午後、学童保育の園庭で遊んでいたとき、先生が「由ちゃんお迎え」と言いにきた。喜んでランドセルを背負い靴を履くと、立っていたのは父ではなく、母と名乗る女性だった。私はその顔も忘れていた。そのまま、祖母の運転する車に乗せられ、三時間かけて徳島に連れ去られた。そしてもう二度と高知へは戻らなかった。だから、二度と父には会えなかった。
 由は中本という姓になった。そして高知の日々は幻となった。鬼塚などという苗字はない。高知に住んだこともない。昔からあなたは中本由。あなたの父は中本正吉。あなたの勘違い。鬼塚などという人はどこにもいない。徳島の由緒ある呉服店。皆、心優しく温厚で明るい。裕福。曾祖母まで元気な大家族。私が高知のことを口にすれば、お母さんもおばあちゃんも皆が悲しむ。だから、ひとりこらえた。
 けれど、由は待っていた。父が迎えに来てくれるのを待っていた。お父さんが私をほっておくわけがない。お父さんは必ず、私を迎えにやってくる。由は信じて疑わなかった。
 ただ由に残されたのは、父が選んでくれた白いワンピース。スーパーの二階で私の手をつないでレジに並んでくれた、父の買ってくれたワンピース。そしてランドセルになぜか間違って入っていた、父の白いハンカチ。父の匂いがした。一人その匂いをかぎ、耐えた。父に抱きしめられていると想像し、そのハンカチに顔を埋めた。やがて匂いがなくなるころ、父が地上を去ったと耳にした。
 込み上げるのをこらえ、由はなんでもないと岡崎に笑った。誠さん、私はあなたを一人にはしないから。心で言った。
 金閣寺に向かう市営バスの中で、心は落ち着いているのに、由は涙がにじんでしようがなかった。
 岡崎は由の様子に気づかないふりをして、話しかける。
「金閣寺、行ったことあるんか」
「ずっと昔、小さすぎてほとんど何も覚えてないの。だからずっと来たかった」
 親父と来たのか。岡崎はそう思って、口を閉じた。
 由は金閣寺をずっと避けてきた。どうしてなのか、自分でもよくわからない。父との思い出に触れるのに強い畏れを感じた。それは彼女の存在を縛る呪縛でもあった。
 山門をくぐり、順路に従うと、水面にその姿を映す金色の建物がすぐに現れた。誰もがカメラや携帯をかざし、また気取ってそのフレームにおさまっている。
「私、撮って」
 由はまるで何かに強いられたように金閣寺を背に立つ。岡崎は何か言い返せない気もして、言われるまま由に携帯を向けた。
「もう一枚、今度はもっと私を大きく」
 言われるとおり、寄って撮る。画像を覗き込み、大事にしてね、と由は言った。指定の順路を巡り、あっさりと拝観は終わった。その間、ずっと由は口を開くことはなかった。バス通りに出ると、岡崎が訊いた。
「親父さんと昔来たんか」
 どこかぼんやりとして、うなずく由。
「そのときのこと思い出したか」
 歩きながら、話す。
「ちっとも思い出せなかった」
 嘘だ。
「そこを右。大学があるの。入れるかな」
 しばらく先に、私立大学の広い門が見えた。岡崎が嫌な顔をして、立ち止まった。こんなところ入りたくもない。
「お願い。今日、区切りつけておきたいの。一人じゃ勇気出なくて」
 岡崎は観念して黙って歩き出す。大学は新入生歓迎イベントの最中であった。華やかに人生を謳歌する浮ついた雰囲気が溢れ、大変な賑わいだった。その中を歩く二人はいかにも場違いであったが、二人を気にかける者など誰もいない。二人はキャンパスを抜けて校外へ出た。
「ありがとう。これでいいの」
 由の顔は少し青ざめ、かすかな笑みを浮かべていた。
「お父さんとずっと昔一緒に来たの。さっきは嘘ついたけど、たくさん思い出した。もう大丈夫。これでいいと思う」
「親父さん今はどうしてるんや」
 気がかりで、聞いてみた。
 由は顔の横に指を一本立て空を指差して、小さく笑った。
「別れて、すぐ死んじゃったの。迎えに来てくれるのを、ずっと待ってたのに。私をひとり残して、勝手に死んじゃったの。だから大好きだったけど、お父さん恨んで、心の中のお父さんを全部消したの。そのときは病気で亡くなったって聞いたから」
「恨んだのか」
「うん。必ずまた会えるって、信じて一ミリも疑わなかったのに、私を捨てて死んじゃったから」
「約束してたのか」
「約束なんかしない。私とお父さんなんだから、会えなくなるなんてありえない。そう思ってたから、捨てられたと思った」
 岡崎は自分のことを思っていた。施設に保護される前から、もう家に居場所はなかった。
「今でも親父さんのこと恨んでるのか」
 由は岡崎の顔を見て、ゆっくりかぶりを振った。
「お父さん私がいなくなって一人ぼっちになったの。私が迎えに来てって祈ってたとき、一人ぼっちで寂しくて死んじゃったの。病気じゃなくて、自分で死んだの。私が行けば良かったの。待つんじゃなくて私が行ってあげてたら、お父さん死ななくて良かったの」
 淡々と話しながら、目ははらはらと涙を流す。
「私のせいだって、ずいぶん自分責めてきたけど、もういいの。誠さんと会えたから。明日までだけど」
 岡崎は黙ったままだ。
「歩き疲れた。どこか座りたい」
 岡崎は無言でうなずき、見回す。カップとソーサーのイラストが大きく描かれた、カフェらしい店が見え、由が指差した。
 店内のテーブル席に腰を下ろし、岡崎が頼んだ外国産ビールが先に運ばれてきたとき、岡崎の携帯が鳴った。
「ああ、先生か」
 岡崎は太々しいいつもの態度に戻り、電話に向かっている。森弁護士からの電話らしい。
「ええ?! なんやて?!」
 岡崎は大声をあげた。そして立ち上がると、電話を耳に当てたまま外へ出て行った。どきりとして由も腰を上げかけたが、店先で通話している彼の後ろ姿が見えて、そのまま腰を下ろした。由は窓の外、西大路通りの往来を眺めていた。
 戻ってきた岡崎は、もう口をきかなかった。言葉にならないほど怒っているようでもあったし、また整理のつかない鋭い葛藤のために思考が停止してしまっている様子でもあった。
 
 二人は地下鉄の駅へ歩いた。言葉数は少ない。途中、急に岡崎は立ち止まり、由に尋ねた。
「会えることがいちばんなんやろか」
「会えなくなるくらいなら、どんなことでも耐えられる」
 由はすっと答え、もう一度言い添えた。
「会えなくなることは、一人になることだから」
 岡崎は黙って険しい顔をしている。そしてまた歩き始めた。
「お前んち、鞍馬口やろ」
「はい」
「じゃ、そこ寄って、ちゃんと用意して俺のとこ帰ろう」
 そのつもりだった由は、うなずいた。
 
「つまらん部屋やな」
 法律書や法律雑誌がずらりと並んだ本棚の前に立ち、岡崎は煙草に火をつけた。
 由はバッグに着替えなど入れ、着替えを始めた。もう岡崎に恥ずかしさを感じないらしい。岡崎もそういう由にひどく馴染んでいる。いよいよ明日、二人で向かうのだ。
「お前、なんで弁護士になろと思たんや」
 岡崎が尋ねた。
「お父さんが弁護士だったから」
「へえ。すごいやんけ」
「でも本当は迷ってる。もう合格できそうもないし、他の人みたいに何が何でもって気にはなれないし。でも、私に会社勤めは無理」
 岡崎は応えず、こたつのテーブルの上に腰を下ろし、煙草に火をつけた。しばらくして、岡崎はいきなり言った。
「弁護士になったらえやんけ。儲かるやろ」
 今度は由が返事をしない。
「親が弁護士か。えらい違いや」
 岡崎はひとりごちる。そして、もういちど声を張る。
「お前弁護士になれ。そしたら俺の自慢になるわ」
「あなたの自慢になるの」
「そや。弁護士の連れがいたらすごいやないか」
「じゃあ、なる」
 岡崎はふんと笑った。
「おう、なってくれや」
「お待たせしました」
 由の準備ができた。
「明日ぱくられて、もう帰ってこれへんかもしれんぞ」
 由が笑顔を作った。
 
 地下鉄を烏丸御池で乗り換え、山科に向かう。まるで兄妹のような近しさで、二人は身体をぶつけながら並んでつり革を掴んでいる。
「お前弁護士になったら、どこに店開くつもりや」
「事務所?」
「おう」
「考えてもみなかった。私が事務所なんて」
「アホ。弁護士なったら下っ端やのうて自分が社長にならなどないすんねん」
「できるかな」
「できると思わな、できるかい」
 由はうれしかった。
「人間一人やと、あかんな」
 唐突に岡崎が独り言のようにそう口にした。ほんとにそうだと、由は思った。
 明日になれば、もう岡崎は遠くに行く。由は隣に立っている岡崎の肘の上のあたりをつかんだ。力のみなぎる男の腕だ。岡崎はちらと由を見ると、そのままつり革を持ってまた窓を見ている。
 森からの電話は何だったんだろう。由は急に思い出した。大学近くのカフェで、森からかかってきた電話のことを岡崎は一言も口にしない。だから由も聞きづらかった。
 先に地下鉄改札を出た岡崎に追いつくと、由はその左手を両手で抱いた。岡崎しばらくそのまま歩いた後で、ゆっくりその手を振りほどいた。
 昼食を食べ損ねていたので、がっつり食べようと二人は中華料理店に入った。ビールのグラスを合わせ、乾杯した。この時間のすべてが由はいとしい。この時間のために、今まで生きてきたようにすら感じている。私は私の思いを、思い切り人生に叩きつけたい。私は生きたい。そのためだったら、何を失っても惜しくない。
 誠さん、あなたを手伝うし、私を手伝って。
 岡崎はまた険しい顔をして、黙々と酢豚を箸でつついては自分のグラスにビールを注いでいた。
 
 部屋のドアノブに鍵が差し込まれた。岡崎の家だ。
 由は一昨夜ここに泊まったはずなのに、まったく雰囲気が違って見えた。ここは家族の家だ。男一人が暮らす家ではない。靴箱には幼児の靴がある。部屋のそこかしこに、マジックペンの落書きやシールが貼られている。再び子供たちが帰ってくるのを待っているのだ。由は、岡崎の子供たちへのむきだしの思いに胸が苦しくなった。
 岡崎は浴室に湯を張っている。勢いある蛇口からの水流の音が聞こえてくる。浴室から戻ると、そのまま岡崎は由を抱きすくめて、唇を合わせた。
 
 そのまま寝入ってしまったことに目が覚めて気がついた。リビングの方が明るい。由は脱ぎ捨てた下着をベッドの中に探し、身につけ身体を起こした。
 岡崎が大きなキャリーケースを広げ、その傍らに子供用の衣服や大小のおもちゃやボール、タオルケットなどを集めていた。
 由に気がつくと、岡崎はディズニーのキャラクターが描かれた黄色地のタオルケットを取り上げ、広げて見せた。
「これがないと、翔太眠れへんねん」
 そう言って、再び黙ってその作業を続ける。
 手伝いたかったが、それは侵してはならない岡崎の神聖な儀式のように思われ、ためらった。しばらく寝室からその様子を眺めていたが、由は尋ねた。
「明日は何時に起きる?」
「九時に出ればいい」
「九時から向こうで見張るんじゃなかったんですか」
「かまへん。十時半でええねん」
「何か手伝えることあれば言ってください」
 手を休めず、おう、と岡崎は答えた。
 もう一度由はベッドにもぐり込む。誠さんの匂いがする。ずっとこうしていたい。しかし、夜が明けたら、決着の時だ。
 そのときふと、どうして十時半で大丈夫なのか気になった。森からの電話のせいだろうか。しかし不安を心から払う。岡崎が決めた通りにしよう。由は布団を頭からかぶり、余韻を記憶から手繰り寄せ、自分の身体を抱きしめた。
 
 朝だ。岡崎はもう起きている。
「寝なかったんですか?」
 由が声をかける。
「さっき起きた」
 ぞっとするような暗い声だ。
 いよいよなのだ。時計は七時半を指している。カーテン越しなのに窓から差す陽光が室内を照らしている。晴天だ。岡崎はキャリーケースを開いたまま、何かを入れたり出したりしている。荷詰めは終わったのか、判然としなかった。由は岡崎に断り、シャワーを浴びた。服だけでなく、何もかも洗い落とし、脱ぎ下ろしたいと思った。
 浴室の鏡を見ると、鬱陶しい女が映っていた。髪を切ろう。由は思った。なんでこんなに伸ばしていたんだろう。もしそこにハサミがあれば、バッサリと切ってしまっていただろう。こんな髪では何もできない。闘えるものか。これが済んだら、すぐに髪を切ろう。必ず。由は思っていた。
 髪を乾かし、昨日岡崎が選んだワンピースに腕を通す。これが私の新しい装束。私は負けない。
 岡崎も着替えを済ませていた。ベージュのコットンパンツに黒いシャツ。素敵だ、と由は見惚れた。
「朝ご飯、どうしますか?」
「時間あらへんし、途中で買って電車で食おう」
 由はトートバッグを肩に掛けた。
 きな臭い。二人に世界が軋んでいる。二人に世界は触れられない。二人が歩けば、世界は摩擦で煙をあげる。だけではない。二人の間にも、秘かに激しい亀裂が軋みを上げ始めている。それは最初から分かっていたこと。
 湖西線から山科駅に滑り込んた新快速電車はひどく空いていた。二人は乗り込むと、バッグを棚に上げ、並んで腰を下ろす。コンビニで買った朝食を分ける。おにぎり、サンドイッチ、いなり寿司、ポテトスナック。もの言わず、二人かぶりついた。
 大阪に到着し地下鉄谷町線に乗り換えると、岡崎の顔はみるみる青ざめてきた。その表情は見るからに頼りなく消沈しているかと思うと、ただならぬ葛藤に精神が引き裂かれ悲鳴を上げているように苦し気にも見える。落ち着かずくるくると別人のように表情を変え、まるで常軌を逸しているかのようだ。そして七丁目に到着する頃には、ぐったりと疲れて感情が鈍磨しているように見えた。
 由は意外だった。戦場に向かう兵士のように悲壮な切迫感をたたえながら、それでも軽口の一つや二つたたく勇猛な岡崎の姿を由は想像していたからだ。
 七丁目駅到着と同時に、岡崎は目が覚めたように機敏になった。多動な少年のように一時もじっとしておれない様子だ。
 かさの割に軽いキャリーケースを抱えるように持ち、急ぐように階段を上がる。由はあとを追う。
 改札を抜けると、そのまま長い地下道を急ぐ。いくつか出口の表示を無視して通り過ぎる。調べていたのだ。ずいぶんと離れた目当ての出口番号の階段を登った。
 地上に出るとそこは谷町筋沿いのちょうど一昨日彼が民家の陰で待ち伏せた近くであった。
「タクシーつかまえるんや」
 そう言うと、彼は身を乗り出すようにして、往来にタクシーを探す。
「今何時や」
 自分の腕時計を見ればいいのに、由に尋ねる。
「十時二十分です」
 由は答える。岡崎は何か動転して、まるで別人のように見える。
 岡崎の焦りが由に伝播する。向かい側の車線をタクシーが続けて通過する。こちらを通るのは回送のタクシーだけだ。岡崎は舌打ちして、くそ!と呟く。
「私がタクシー止めときますから、誠さん行ってください」
 由がそう言うと、強張った顔でバッグを抱えたまま、小道を行こうとする。
「バッグ置いといたら」
 由が声を上げると、岡崎は由の方を振り返り、困った顔ぶりで何か言いかけたが、言葉を呑み込む。そして由に駆け寄りバッグを置くと、急いで走り去った。
 大丈夫なのだろうか。岡崎のあまりの狼狽ぶりに由は苛立ちすら覚える。
 そのとき空車のタクシーがこちらにやって来るのが見えた。由は咄嗟に車道に躍り出ると、手を挙げて合図した。タクシーはウィンカーを点灯し、減速して脇へ寄り、彼女の前で停車した。
 ドアが開くと、彼女は放り込むようにバッグを座席に置くと、顔をのぞき込んで運転手に言った。
「すみません、後からまだ来るんです。待ってもらえますか」
 ミラーで彼女を見ながら、若い運転手は承知しましたと答えた。
 逸る思いで、彼女は舗道に立ち、彼の姿を探した。
 筋を入ったすぐの角に、彼を見つけた。彼は落ち着かぬ様子で自販機に手を置いて、何度も腕時計を見ている。
 
 彼は腕時計を見る。十時二十八分。あと二分。
 そのとき、若い親子連れ三人がマンションの玄関ドアから出て来るのが見えた。
 佑樹! 岡崎は駆け出した。
 辺りを見回していた梨香が彼に気づいた。それより早く、佑樹が岡崎に気がつき、梨香の手を放し走り出した。パパ! 満面の笑顔で力いっぱい走ってくる。そんなに走ったらこけてしまう。岡崎は道路の真ん中にしゃがみこんで両手を前に差し出し、飛び込んで来る佑樹を抱きしめた。
 梨香はかたわらの翔太を抱き上げ、ゆっくり岡崎と佑樹のもとへ歩み寄った。
 岡崎が抱きしめていた腕をほどくと、佑樹は照れたようにはしゃいで、パパが来た!と大声を上げて身体をくねらせた。梨香の腕から降りた翔太も岡崎に抱きつくと、抱きしめようとする岡崎を突き放して、その場でぴょんぴょんと飛び跳ねて笑い出した。
 岡崎の顔はクシャクシャに崩れ、力尽きたように膝を落とすと、再び翔太を捕まえた。それを見て、佑樹も身体ごと抱きついてくる。
 梨香は傍らに立っている。無表情だ。
「パパも一緒に行こう?」
 留め金が外れたように、岡崎が身体震わせ泣き出した。
 翔太が兄の真似をして、もう一度言う。パパも行こう。
 そして涙溢れる岡崎の頭をその小さな手のひらで撫でている。
 佑樹はそのかたわらで梨香の手を握り、その顔を見上げている。
「弁護士さんに私たちの住所は伝えます」
 岡崎は答えない。
「子供たちがあなたに会いたがっています。だから、面会交流の話し合いに応じて下さい」
 岡崎は下を向いたまま、首を振る。
「子供たちが会いたいときに会えるようにちゃんとしていてください。あなたがパパだと言い張っていますから」
「連れて帰る」
 岡崎は鼻水すすりながら、ようやく口にした。
「何言ってんの!」
 梨香は声を張り上げた。
「私知ってるのよ。あなたの借金。生活保護でどうやって二人育てられるの。いいかげんにして!」
 岡崎は大きな息を吐いた。
「耐えられへん」
「だから、この子らが望んでいるのよ。あなたなんかに、なんで」
 佑樹が梨香の腕を引っ張った。
「パパをいじめないで」
 梨香を見上げて、言う。
 翔太がまた岡崎の頭を撫でている。
「お願いだから。話し合いに応じて。私たちだって、本当はしたくないのよ。わかるでしょ」
 吐き捨てるような強い口調。
 岡崎が小さくこくんとうなずいた。
「持ってきてくれた?」
 梨香が尋ねる。岡崎がうなずく。
「主人が待ってる」
 梨香の視線の先、マンション前に白いセダンが停車している。車内では橋爪が傷つく心を岡崎への抑えがたい嫌悪で覆い隠していた。
「今度いつ会える?」
 佑樹が聞く。
 岡崎はうなずいて、二人に言う。
「家からぎょうさん持ってきたさかい、ちょっと待ってるんや」
 岡崎はきびすを返し、走って道を戻る。角を曲がると、由がいた。
 現れた岡崎を見て、由は目を疑った。ひどく貧相な男が身体を小さくしてこちらへやってくる。それが岡崎であることは分かるのだが、信じられない。
 岡崎は黙って、キャリーケースを掴むと音立てて引いて行く。
 何するつもり? 佑樹ちゃんたちは?
 由は呆気に取られたまま、茫然と岡崎を見送る。
 追いかけようとも思うが、タクシーから離れられない。
 タクシーの運転手が苛立っている。
「まだでっか?」
「すみません」と謝る。どうしよう。由は困惑していた。
 マンション前の車に、もう子供たちは乗り込んでいる。梨香が岡崎からキャリーケースを受け取り、トランクに入れた。
 梨香が助手席に乗り込むと、後部座席のウィンドウが開き、押し合うように二人が顔を突き出した。
「パパいつ来る?」
 佑樹がもう一度尋ねた。
「すぐや」
 岡崎の笑顔が涙で崩れる。
「すぐ?」
「せや。すぐや。約束する。すぐや」
「やくそくー」
 佑樹が小指を伸ばした小さなにぎりこぶしを力いっぱい突き出した。飽きたのか、翔太はもう岡崎に関心はない様子だ。岡崎は佑樹の小さな小指に指切りした。離したくない。
「危ないわよ」
 車がゆっくり動き出した。
 指を離す。
 バイバーイ。窓から腕と顔の半分が見えたまま、車は勢いよく谷町筋の車の流れに紛れて行った。
 涙溢れ、岡崎はその場に立ち尽くす。
 と、そこへ中央署のパトカーがやって来た。
 停車したパトカーから巡査が二人降りてくる。そこで起きたこと何も知らず、不審者に用心せよと指示された問題のマンションで岡崎を目に止めたのだ。
 岡崎は魂の抜け殻のように立っている。
 年配の巡査が岡崎に身分証の提示を求めた。岡崎が尻ポケットから財布を取り出すとき、一緒に薄緑色の小冊子がポトリと落ちた。
 若い方の警察官がそれを拾い上げると、目付きが変わった。由の貯金通帳であった。
「これ、誰のや」
 岡崎は首をひねり、知らないという仕草をした。
「知らないわけないやろう。君のポケットから落ちたやないか。どうしたんや、これ」
 重ねて巡査は詰問した。
 岡崎は、またもう一度首をひねり、知らないと告げた。
「ちょっと中で話聞こうか」
 パトカーの後部シートに、警察官に挟まれて岡崎は座った。
「お酒飲んでる?」
 岡崎は黙って下を向く。
 少しして中央署から無線が入った。
「じゃ、署の方で話、聞かせてもらおうか。任意同行ね」
 
 いい加減、タクシーの運転手も我慢の限界だった。待たされることよりも、状況がまったくわからないのだ。あと何分待てば、何人がやって来るのか。何回聞いても、この女は答えられない。料金メーターはどんどん上がっている。もうこれ以上は待てない。そう思っていた。
 タクシーの外で由はさらに困惑していた。キャリーケースを持って行ったまま岡崎は戻ってこない。どうなっているのだろう。それに岡崎の打ちひしがれた気配が気になって仕方ない。何が起こったのだろう。
 そのとき、由の視界にパトカーが入った。タクシーの脇をパトカーが通り過ぎるとき、後部座席の岡崎が確かに見えた。
 ああ! 由は言葉にならない声を上げ、すぐにパトカーのあとを走り出した。
 驚いた運転手は慌ててタクシーから出ると、泥棒! と大声で叫び、由を追いかけた。偶然近くで交通事故の検分中だった交通課の警官たちがその声を聞いた。そして走る由を取り押さえようとした。
 由は半狂乱になって暴れた。掴もうとする警察官の腕を振り払おうと、思い切り手を振り回し、警察官の顔や肩を殴打した。ぶたれながら、二人がかりで由の腕を両側から押さえた。それでも由は絶叫して暴れ、大柄な婦人警官がやってきてようやく制圧された。そして彼女も中央署に連行された。
 
 森弁護士に連絡があったのはその日の夜八時過ぎだった。すぐに由を引き受けたいと彼は強く警察署に訴えたが、実際の身柄引渡しは翌日の午後となった。公務執行妨害事案は送検が見送られ、詐欺事案、無賃乗車についても由及び岡崎に対しタクシー会社からの被害申告が取り下げられることになった。
 岡崎は署の取り調べの際、貯金通帳名義人中本由と面識はないと言い張ったため、前々夜の暴行被害者の通帳であることから、すわ強盗事件として逮捕状請求の手続きまで準備された。署内の情報共有に齟齬があり、その被害者中本由が同時に別室で取調べを受けていることがわかるまで時間がかかった。由の供述によって、彼女は被害者ではなく、岡崎の情婦であるから立件には及ばないと結論づけられたのはその日の夜遅くであった。岡崎は終始積極的に嫌疑を晴らそうとはせず、由と面識はないと言い張った。彼が強盗被疑事案に嫌疑なしとして釈放されたのは翌日の朝である。
 由が身柄を森弁護士に引き渡されたのはさらにその五時間後であった。
 彼女は検挙当初激しい興奮状態にあり、誠さんはどこにいる、誠さんと会わせろと保護房内で喚き、泣いた。彼女の錯乱が度を過ぎていたため、薬物の使用や精神的疾患すら疑う者もあった。
 岡崎と子供らとのマンション前での顛末については、翌朝岡崎がすでに釈放されてのちに刑事から聞かされ、そうして由は気が抜けたようにおとなしくなった。刑事から、なぜ大金を岡崎のようなやくざ者に貢ぐ気になったのかと再々尋ねられたが、彼女はただそうせねばならないと強い衝動に駆られたからだと、それ以上に理由はないと答えた。また、岡崎が貯金通帳からは一円も引き出していないことも刑事から聞かされた。
 取調べの調書を読み聞かされた際、冒頭に「私こと中本由は岡崎誠(三五歳)の情婦でありますが」とあった。情婦という響きを聞き、切ないような満足感と同時に、もう岡崎とは二度と会えないだろうという身を切るような寂寥感に襲われた。
 
 森弁護士を通して梨香から指定されたとおりの時間に岡崎は子供らの愛用品を持参して現れ、以後面会交流の話し合いに応じる旨承諾したと、森は是枝弁護士から報告を受けていた。梨香の強い希望により、弁護士を介さず子供と一緒に岡崎と直接面談したいという危険な提案が功を奏したことに双方とも弁護士は安堵した。その矢先、森弁護士に由と岡崎の身柄が警察署にあるという連絡が入ったのである。
 仕事柄、あらゆる予見を排し最悪の事態をも想定することが習い性なのだが、それが身内のこととなると話は別である。連絡を受け、森はまるで実の娘に対することのように衝撃を受け、動揺した。ようやく、翌日警察署に駆けつけた際平静を装ってはいたが、ドアを開けて婦人警官に伴われて現れた由に駆け寄り、思わず抱きしめそうになった。由はまったく別人のように見えた。ほんの数日で彼女はすっかり変容し、その鋭い目は強い光を放っていた。そして森は、一気に老いてしまったと自分で感じていた。
 もの言わず二人は森の運転する車で京都に帰った。北山のレストランで一緒に食事を取った。
 長い時間の逡巡を悔いていた森は、由の父鬼塚理と親友であったことを由に告げた。
「彼は僕より六歳も若かったけれど、僕は一度も彼を年下と軽んじたことはなかった。彼は尊敬に値する人物であり、弁護士としてとても優秀だった」
 由は目を見張り、彼の言葉に聞き入った。
「同期の僕らは彼のことをウォッカと呼んでいたよ。意味わかるかい」
「お酒のウォッカですか」
「うん」
 森は楽しそうだ。
「お酒が好きだったんですか」
 森は違うと首を振る。
「ウォッカはロシアの酒でアルコール度数が高いんだ。彼は人間としてのアルコール度数が高い。彼と付き合うと誰でも彼に酔っ払ってしまうんだ」
 その情熱と行動力、弱い立場への共感。僕らはいつも彼に当てられていたよと森は言った。
「それに」
 森は続けた。
「ウォッカはそのままで火がつくんだ。度数高いから。すぐ燃えるんだ。凍える寒さにはそれくらい強烈でないとなんの役にも立たない」
 もっと聞きたい。父のことをたくさん知りたい。由は思った。
「怒ったときの敵に対する容赦のなさは、結局自分に返ってくる。自分を責め出すと、もう誰が何を言っても無駄だった。
 だから僕は君が、鬼塚のことで自分を責めているのではないかとずっと感じてきた。
 どうかい。そんなことはないかい」
 由はまっすぐ森の目を見つめて、おだやかな声で答えた。
「そんなことはないです」
 森も由の目をしっかり見つめて、言った。
「君が罪障感にとらわれることはない。君まで鬼塚の二の舞になると、鬼塚の魂はますます自責から逃れられなくなる。君に罪はない」
 由は何かが雪崩のように流れ落ちてゆくのを感じている。
「私の名前のこと、何か聞いていますか」
 由は尋ねた。
「ああ、しっかり聞いたよ。おさむの理と由で、理由」
「理由って、どういうことですか」
「彼はこう言っていたよ。理由と書いて、わけと読む。物事の所以だ。すべてものごとには意味があり、その所以がある。偶然とか無意味とかいうものは何もない。つまり理由とは必然であり意味合いのことだ。すべて物事には意味があり、いらないものなどどこにもない」
 由の目に涙がにじんだ。
「おさむとゆうで、意味、必然。だから、引き離されて、それはつらかったと思う」
 そばに父がいるような気がした。
「別れてもそこには意味があると、彼はきっと思えなかった。彼は矢折れ力尽きたんだ。一度彼の生まれ故郷の奄美に行ってみたらいい。そこに彼の理由もあったんじゃないか」
 よく分かった。
「だから」
 はっきりと父を感じる。
「君には重荷だったろうが、託したかったんだと思う」
 そう言って、森は止めていたナイフとフォークを動かし始めた。
「しかしね」
そう言ったきり森は口をつぐみ、口に肉を運んだ。
由は黙って次の言葉を待った。
「僕らが知っている鬼塚は彼の一部だ。僕らにも見せなかった彼の弱み、駄目なところを君はさんざん見ていたんだと思う」
 由は目を見張って、森を見つめている。
「あんなことになったんだし、君をも苦しめた。彼がもっとも避けたかったことだったろうに」
 由は身動き一つしない。
「だから、やっぱり彼は今でも、失敗だったと思っているはずだ。もう君は、鬼塚からもっと自由になっていい」
 視線を少し落とした。
「うまい言葉が見つからないが、もう十分だと思う」
 不意に込み上げ、由は強く唇をむすんだ。そして、ごまかすようにグラスを口に運んだ。身体から流れ落ちるように何かが遠くに離れてゆく気がして、みるみる自分が軽くなるのを感じた。
 しばらく会話が途切れ、二人は食器を鳴らし、ただ黙って食事した。
「先生だったんですね」
 突然由が、明るい声で言った。
「京都旅行のとき、父と三人で賀茂川の床で食事をしたの」
「ああ、君が小学校の」
 由は笑顔で言った。
「二年生のときです」
 由が手を止めて、言った。
「じゃ、二回生のとき学生課の紹介で先生の事務所に行ったのは」
「偶然だ。鬼塚のはからいだ。君が事務所にやってきた理由、必然ということだな」
 今までの人生がつながってひとつになった気がした。
「事務所はどうする」
 森は目を料理に落としたまま、尋ねた。
「すみません」
 森はうなずいた。
「寂しいな」
 由は岡崎のことを思った。最後にきちんとありがとうと言えばよかったと少し悔いたが、すべては終わったのだと感じていた。すっかり片はついたのだ。もう二度と会うことはない。
 
 鞍馬口のアパートの前に、廃品回収のトラックが停車している。灼けつく夏の空だ。汗に汚れた作業服の男が硬く縛った書籍類を荷台に放り投げている。回収された書籍はそのほとんどが司法試験のための問題集や参考書だ。
「よっしゃ、これで最後や」
 最後に投げ込まれたのは大きさの揃った数十冊のノートだ。
 作業員が乗り込み、トラックは走り去った。日は高く、あたりに人気はない。近くの烏丸中学校から、昼休みを知らせるチャイムの音が響いた。
 
   
                  2019.5.10 了